「東京裁判史観」
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「極東国際軍事裁判」の記事における「「東京裁判史観」」の解説
東京裁判史観とは、東京裁判の判決をもとにした歴史認識のことで、満洲事変からいわゆる「太平洋戦争」にいたる日本の行動を「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略とする点を特色とする。この史観は連合国軍総司令部民間情報教育局により昭和20年末から新聞各紙に連載された「太平洋戰爭史」によって一般に普及した。この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識として保守派から批判があり、また昭和天皇や731部隊の戦争責任が免責されたため進歩派からも問題点を指摘されている。 秦郁彦によれば、1970年代に「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めた。東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「自虐史観」に反発の矛先を向けているという。秦は渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳・小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や、非専門家の論客がこうした主張の主力を占め、「歴史の専門家」は少ないと指摘している。 これらの論者があげる裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。 審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『紫禁城の黄昏』すら却下された。 判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。 また江藤淳によればGHQは占領下の日本においてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)とも主張している。ただし、GHQからメディアに対し宣伝するようにとの具体的な圧力があったとの話はとくに聞かれない。また、占領下で一般にGHQ批判が許されなかったのは事実だが、裁判自体は、路上であればとても言う事が許されないようなことを被告側は堂々と主張していると評される状態であった。 秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている。 侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者の裁き」だったゆえに敗者の例だけがクローズアップされたと強調する。 「パール判決書」を「日本無罪論」として礼賛する。 講和条約11条で受諾したのは「裁判」ではなく「判決」と訳すべきだったと強調する。 二次的所産の歴史観を批判の対象とする。
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