「東夏国」時代
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遼東地方一帯を放棄した蒲鮮万奴は東に進んで金の行政区画で言う所の合懶路・曷蘇館路・胡里改路、すなわち現在のロシア・中国・北朝鮮にまたがる日本海沿岸〜黒竜江中上流域を支配した。この領域では多数の中世城郭都市の遺跡が発見されており、とりわけ規模の大きいクラスノヤロフスコエ城址と城子山山城は文献史料上に記載のある「開元府」と「南京」にそれぞれ相当すると見られる。また、『元史』巻1太祖本紀には一度モンゴルに降った蒲鮮万奴が「既にしてまた叛し、東夏を僭称した」と記されており、これ以後蒲鮮万奴の勢力は「東夏国」と呼ばれるようになる。蒲鮮万奴が「東夏国」と称するようになった経緯、時期については諸説あるが、遼東一帯を放棄して東北地域を拠点に定めたことと結びつける説が主流である。なお、高麗国は何らかの理由で一貫して「東夏国」を史料上で「東真国」と呼称しているが、ここでは「東夏国」に統一して表記する。 蒲鮮万奴が遼東地域から北上して上京方面に出ていた頃、耶律留哥から離反した契丹人集団(後遼)は金朝の攻撃を受けて鴨緑江を渡り、高麗国内に侵入していた。耶律留哥への支援を約していたチンギス・カンは後遼の討伐のため哈真と札剌という武将を遼東方面に派遣したが、この時蒲鮮万奴もまた再びモンゴル帝国に服属したようである。そして1218年(興定2年、戊寅)12月、東夏国領を通過した「モンゴル(蒙古)元帥」の哈真と札剌率いるモンゴル帝国軍1万・蒲鮮万奴が派遣した完顔子淵率いる東夏国軍2万の連合軍が高麗の東北国境より現れ、高麗国に協力して「丹賊(=後遼政権)」を討伐することを申し出た。高麗はモンゴル・東夏連合軍の申し出を受け容れ、協力して後遼政権を江東城にて滅ぼし、モンゴル帝国と高麗は「兄弟の関係」を結んだ。 1219年(興定3年、己卯)よりチンギス・カンが西方遠征を始め、モンゴル軍の大部分が東アジアを離れたこともあり、1220年代の東北アジアでは東夏国・高麗国・遼東の金朝残存勢力が並立する状況が定着した。江東城の戦いを経てモンゴル帝国と友好関係を樹立した高麗国は、毎年互いに使者を派遣することを約し、使者は必ず「万奴之地(東夏国)」を通過するよう取り決められていた。 ところが、1224年(正大元年、甲申)正月に東夏国は高麗に使者を派遣し、二通の国書をもたらした。一通には「モンゴルのチンギス・カンは絶域に赴いて所在が知れず、[モンゴル本土に残ったチンギスの末弟]オッチギンは貪暴不仁であり、[東夏国はモンゴル帝国との]旧好を既に絶った」と記され、もう一通には榷場(交易管理所)を互いに設置することの要求が記されていた。これを受けてモンゴル帝国の使者古与らは従来の東夏国領を通るルートではなく鴨緑江下流域を越えて高麗国内に入ったが、1225年(正大2年、乙酉)正月の帰路にて盗賊によって殺害されてしまった。この一件を経てモンゴル帝国・東夏国・高麗国の関係は悪化し、定期的な使者のやり取りは途絶え、蒲鮮万奴はしばしば高麗に出兵するようになった。1225年8月には朔州を、1227年(正大4年、丁亥)9月には定州・長州を、1228年(正大5年、戊子)7月には長平鎮を、それぞれ東夏国の兵が侵掠している。1229年(正大6年、己丑)2月には東夏国より高麗に講和の使者が出されたが、交渉は失敗に終わり再び高麗領和州が掠奪を受けた。この間、蒲鮮万奴が高麗国に語ったようにモンゴル帝国ではチンギス・カンが常に遠征の途上にあり、モンゴル軍は遼東方面にはほとんど介入することがなかったことが東夏国の延命に幸いしていた。しかし、チンギス・カンが死去しその息子のオゴデイを中心とする新たな体制がモンゴルで発足すると、東夏国は再びモンゴル軍の侵攻に晒されることとなる。
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