「東夏国」時代とは? わかりやすく解説

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「東夏国」時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:54 UTC 版)

蒲鮮万奴」の記事における「「東夏国」時代」の解説

遼東地方一帯放棄した蒲鮮万奴は東に進んで金の行政区画で言う所の合懶路・曷館路・胡里改路、すなわち現在のロシア中国・北朝鮮にまたがる日本海沿岸黒竜江中上流域支配した。この領域では多数中世城郭都市遺跡発見されており、とりわけ規模大きいクラスノヤロフスコエ城址と城子山山城は文献史料上に記載のある「開元府」と「南京」にそれぞれ相当すると見られるまた、元史巻1太祖本紀には一度モンゴル降った蒲鮮万奴が「既にしてまた叛し、東夏僭称した」と記されており、これ以後蒲鮮万奴勢力は「東夏国」と呼ばれるうになる蒲鮮万奴が「東夏国」と称するようになった経緯時期については諸説あるが、遼東一帯放棄して東北地域拠点定めたことと結びつける説が主流である。なお、高麗国何らかの理由一貫して東夏国」を史料上で東真国」と呼称しているが、ここでは「東夏国」に統一して表記する蒲鮮万奴遼東地域から北上して上京方面出ていた頃、耶律留哥から離反した契丹人集団後遼)は金朝攻撃受けて鴨緑江渡り高麗国内に侵入していた。耶律留哥への支援約していたチンギス・カン後遼討伐のため哈真と剌という武将遼東方面派遣したが、この時蒲鮮万奴もまた再びモンゴル帝国服属したようである。そして1218年興定2年戊寅12月東夏国領を通過したモンゴル蒙古元帥」の哈真と率いモンゴル帝国1万蒲鮮万奴派遣した完顔子淵率い東夏国2万連合軍高麗東北国境より現れ高麗国協力して「丹賊(=後遼政権)」を討伐することを申し出た高麗モンゴル東夏連合軍申し出を受け容れ、協力して後遼政権江東城にて滅ぼしモンゴル帝国高麗は「兄弟の関係」を結んだ1219年興定3年己卯)よりチンギス・カン西方遠征始めモンゴル軍大部分東アジア離れたこともあり、1220年代東北アジアでは東夏国高麗国遼東金朝残存勢力並立する状況定着した江東城の戦い経てモンゴル帝国友好関係樹立した高麗国は、毎年互いに使者派遣することを約し使者は必ず「奴之地(東夏国)」を通過するよう取り決められていた。 ところが、1224年正大元年甲申正月東夏国高麗使者派遣し二通国書もたらした一通には「モンゴルチンギス・カン絶域赴いて所在知れず、[モンゴル本土残ったチンギス末弟]オッチギンは貪暴不仁であり、[東夏国モンゴル帝国との]旧好を既に絶った」と記され、もう一通には榷場(交易管理所)を互いに設置することの要求記されていた。これを受けてモンゴル帝国使者古与らは従来東夏国領を通るルートではなく鴨緑江下流域越えて高麗国内に入ったが、1225年正大2年乙酉正月帰路にて盗賊によって殺害されてしまった。この一件経てモンゴル帝国東夏国高麗国の関係は悪化し定期的な使者やり取り途絶え蒲鮮万奴はしばし高麗出兵するようになった1225年8月には朔州を、1227年正大4年丁亥9月には定州長州を、1228年正大5年戊子7月には長平鎮を、それぞれ東夏国の兵が侵掠している。1229年正大6年己丑2月には東夏国より高麗講和使者出されたが、交渉失敗終わり再び高麗和州掠奪受けたこの間蒲鮮万奴高麗国語ったようにモンゴル帝国ではチンギス・カンが常に遠征途上にあり、モンゴル軍遼東方面にはほとんど介入することがなかったことが東夏国延命幸いしていた。しかし、チンギス・カン死去しその息子オゴデイ中心とする新たな体制モンゴル発足すると、東夏国は再びモンゴル軍の侵攻晒されることとなる。

※この「「東夏国」時代」の解説は、「蒲鮮万奴」の解説の一部です。
「「東夏国」時代」を含む「蒲鮮万奴」の記事については、「蒲鮮万奴」の概要を参照ください。

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