義太夫の会
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『器楽的幻覚』執筆の約1か月前の1927年(昭和2年)11月10日、伊豆湯ヶ島に滞在中であった梶井基次郎は、木炭問屋の資産家・杉山(雑貨商でもある)の屋敷で行われた浄瑠璃義太夫の会を観に行った。 その義太夫の会は、基次郎が宿泊していた「湯川屋」の主人や、按摩の宗さん(視覚障害者)、飲み屋「林川」の女将、宿(郵便局あたりの地名)の菓子屋「木村屋」の主人、自転車屋の足立多一(道楽者)が集結し、彼らの師匠で大阪からやって来た浄瑠璃語りの〈顔色の悪い〉老婆(芸名・竹本東福)を囲んで、1人ずつ義太夫を披露するものであった。 湯ヶ島での生活では、好きな音楽に触れる機会もない基次郎は、その素人の集会に興味を持ってお供し、それぞれ得意の喉を一節うなる村人の義太夫を楽しんだ。 あんまは先代萩をやつたが一生懸命にやつたので下手でも面白くきけた。一生懸命で低い声のところなど思ふやうに声が出ないので小節に切り各節を吹[くやうに]きとばすやうにやつてゐたが、これは和洋の声楽を通じての[下手の]素朴な発声法だらうと思つた。政岡が泣き口説くところではあんまさんは思ひ切つてえげつない顔をした、彼ははじめから酔つたやうに歌つた。なだらかなところでは眼をあけてやる、すると眼あきとかはらないのだ。そんなのを見てゐると僕は悲しく楽しくなり、あんまさんに好意が増すのを感じた — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付) そして基次郎は、別格の上手さを持つ先生格の老婆・竹本東福の義太夫に非常に感心して、その喉や三味線に聴き入った。 先生といふのは酒屋の段三勝半七をやつたが思ひ切つて低いバッス。それから最も高い甲声、それからその間の声、それから強めたり弱めたりなどがはつきり変化を持つて行はれ、この人だけが声楽的な感興を起させた、それから三味線もなかなか達者で、あの顔色の悪い萎微〔ママ〕した女がすつかりしやんとして三味線の音色、そのかけ声、は器楽的な幻想とも云ふべきものを起すに充分だつた。(器楽的幻想とは自分勝手な言葉だが、器楽が達者に弾かれると、下手がやればいかにも楽器でその音を作つてゐるやうな気がするのと反対に、音がその動作と遊離し、動作がまた音とは遊離してゐるやうな幻想が起る、) — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付) ここで基次郎は、〈器楽的幻想〉という言葉を使い、演奏者の動作と、奏でる音との遊離現象を語っているが、ここで感じた体感が翌月執筆の『器楽的幻覚』の創作契機となった。またこの義太夫の会の感興から、大阪生まれながらも文楽をまだ見ていなかったことを残念がり、リードの練習や歌曲愛好の思いも想起している。 また君と一緒に銀座で買つたリードのなかのメフィストをもつと努力して歌へるやうにならうと思つたりした。(この間京都へ行つたとき十字屋でシャリアピンのこのメフィストの歌きき〔ママ〕、到底僕などのやれるものではないと思つて、節をやつただけで感情[のアクセント]付けたり、性格づけたりするのは断念してゐたのだ)あのリードのうちの半分程をもうやつたが、難しいのであとの半分程は止す気でゐる、器楽がなくてあんなものをやらうとするのは無謀に等しいのだ。然しムッソログスキーといふ作者には非常に敬意を払ふことを得た。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付) 『器楽的幻覚』の原稿は、翌12月中旬に出来上がったが、同時に仕上げた『筧の話』も幻覚を扱った作品で、水の音と視覚との間に生じる神秘をテーマに描いている。この『筧の話』の構想は、『蒼穹』や『闇の絵巻』と共に創作ノート「闇への書」に記されているが、『器楽的幻覚』にはそういった草稿がないため、「義太夫の会」での体験から2年前のジル=マルシェックスの演奏会が思い出され、同様の幻覚・幻視のテーマ作品が同時に出来上がったものと見られている。 『器楽的幻覚』と『筧の話』の2編は、12月20日頃に萩原朔太郎と尾崎士郎宛てに送付された。これは、萩原と北原白秋主宰の同人詩誌『近代風景』で発表されることを基次郎が望んだためで(三好達治も寄稿していた)、それ以前に基次郎は東京の尾崎宛てに、その詩誌に紹介の労をとってもらいたい旨の手紙を書いていたとみられている。
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