宇野千代をめぐって
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1927年(昭和2年)6月頃、川端康成の勧めで湯ヶ島にやって来た萩原朔太郎、広津和郎、尾崎士郎、宇野千代、下店静市らと面識を持ち、共に過ごした。7月は、淀野隆三も卒業論文を書くため滞在するようになった。同24日、芥川龍之介の自殺が報じられ、湯ヶ島にも衝撃が走った。 8月、三好達治も卒論執筆のため湯ヶ島に来て、丸山薫も来湯すると、宇野千代や萩原朔太郎も交えて句会が開かれた。三好と基次郎は千代に惹かれた。 9月、尾崎士郎が『新潮』に湯ヶ島を舞台にした「『鶺鴒の巣』そのほか」を載せたが、「鶺鴒の巣」には基次郎が「瀬川君」として登場し、尾崎と千代との夫婦の倦怠を描いた1篇「河鹿」には、梶井が尾崎に教えたと思われる河鹿の交尾の場面が書かれた。基次郎は一旦上京した折に、中谷孝雄と共に東京府荏原郡の馬込文士村にいる尾崎を訪ねて文学談義で意気投合して話し込み、大森駅近くで鰻をおごられた。 10月、京都帝大医学部付属病院の医者に来春まで静養するように診断された後、大阪の実家に立ち寄り、両親の老いを感じて湯ヶ島での創作活動を決意し伊豆に戻った。 10月下旬に川端康成の遠い親戚にあたる北野中学時代の同級生・小西善次郎が『伊豆の踊子』を手に天城越えをするため湯ヶ島に来て、基次郎を訪ねた。11月、天城トンネルを越えて湯ヶ野温泉まで歩いて一泊し、下田港まで回って「湯川屋」に戻ったが、身体を痛めて数日間寝込んだ。 この頃、炭問屋、杉山の屋敷で義太夫の会を聴き、この音と動作の印象が2年前に聴いたジル・マルシェックスのピアノ演奏を呼び起こし、「器楽的幻想」の題材となる。また湯ヶ島を回った大神楽の獅子舞を見て、獅子の仮面が生きているような錯覚を感じた。12月、「『亜』の回想」が詩誌『亜』終刊号に掲載された。『糧道時代』発行計画が同人『文藝都市』となり、浅見淵から誘われ、基次郎は躊躇しながら消極的に参加した。 1928年(昭和3年)1月、再びやって来た小西善次郎と一緒に、熱海の貸別荘に住んでいる川端康成を訪ねて数日泊った。その後、馬込文士村の萩原朔太郎を訪ね。尾崎士郎宅の宇野千代に会いに行った基次郎は、その夜に詩人・衣巻省三の家で開かれたダンス・パーティーに一緒に参加した。千代との恋の噂などをめぐって基次郎と尾崎の間に鬱屈していた「気質の上に絡み合ふ処理できない感情」が爆発する一悶着があった。 基次郎が最初に、「よお、マルクスボーイ」、「おい、尾崎士郎。浪花節みたいな小説書くのん、止めろ」と尾崎を呼んだことが喧嘩の口火だった。尾崎は浪花節的人物であったが、左翼がかったことも口にしていたので、「軽薄な奴」という含意があった。「何をこの小僧」と尾崎が怒り、「足袋をぬげ」と喧嘩の体勢になった。2人は殴り合いの寸前となったが、三井勝人の仲裁により何とか事が収まった。その夜、基次郎は萩原朔太郎の家で一晩中、喀血をした。 ダンスの出来ない梶井と私とはウィスキーを呻りつづけた。私たちの感情はぐいぐいと高まり、もはや言葉でゴマ化すことのできないところまで来てゐた。(中略)私はすぐ立ちあがり、右手に握りしめた煙草を火のついたままふりかざして一気に彼の面上にたたきつけたのである。(中略)それから彼は視線を私の顔から離して、じつと考へ込むやうに眼を瞑ぢた。しかし、すぐ猛然として立ちあがつた。そのときの彼の顔を私は今でもありありと思ひ描くことが出来る。内にひそむ野性が彼の情熱をゆすぶり動かしたのである。 — 尾崎士郎「文学的青春傳」 湯ヶ島に戻った基次郎は、淀野隆三や清水芳夫、三好達治と過ごした。誕生日の2月17日には、熱海の川端の元を訪れ下旬まで過ごした。ボードレールの『パリの憂鬱』を座右の書としていた基次郎は、前年12月頃に英訳の一部をノートに筆写していたが、そのボードレールに影響され、清澄なニヒリズムを描いた「蒼穹」を3月の『文藝都市』第2号に発表した。 3月中旬頃、再び来湯した藤沢桓夫とバスで下田まで行き、黙って下賀茂に2、3泊したため、宇野千代や「湯川屋」の人たちを心配させ、村中が大騒ぎになった。この時期、千代は湯ヶ島に来て、しばしば基次郎の宿を訪れていた。この3月をもって、授業料未払いで東京帝国大学文学部英文科から除籍された基次郎だが、卒業したとしても、結核の身では就職の当てもなかった。 4月、「筧の話」を北原白秋主宰の雑誌『近代風景』に発表。4月下旬、実家からの送金も絶たれ、宿の借金もあり湯ヶ島を去ることを決意した。
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