宇野千代との恋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 15:39 UTC 版)
そうした不安や絶望の中でも、希望ともいうべきものもあった。結核の病状に悩まされ、〈絶望への情熱〉という「死」への思いを抱いた湯ヶ島での生活におけるもう一つの、「恋」という「生」への情熱だった。『冬の蠅』の中で〈生きんとする意志〉と呼んだそれが、この時期には混在していた。 1927年(昭和2年)の6月頃から、尾崎士郎とその妻の宇野千代が湯ヶ島に滞在するようになった。尾崎は2月に川端康成の宿を訪ねて勧められたのを機に再び来湯し、その「湯本館」の離れに千代と滞在した。それを追って、尾崎の馬込文士村仲間の広津和郎、萩原朔太郎らも続いて湯ヶ島にやって来た。 同時期には、基次郎の友人の三好達治と淀野隆三も夏休みを利用し湯ヶ島に来ていて、淀野夫婦は西平の「湯本館」、三好は西平付近の百姓家の離れを借りていた。基次郎は「湯本館」で広津和郎や萩原朔太郎らと懇意となり、自身の宿「湯川屋」に帰る道すがらで、宇野千代と初めて会った。 黒襟の半纏を着て、洗い髪の千代を見た基次郎は、艶やかな千代にたちまち惹かれた。4歳年上の千代の方は、基次郎に骨っぽい精悍な若者の印象を受けた。基次郎は自分の名前を、「よく墓次郎と間違えて書く奴があるんです」と眼を細めて笑う癖を見せ、千代のいる「湯本館」に夕方になるとよく遊びに行った。 ある日、皆で千代も含めて散歩をしている時、激しい渓流の所で誰かが、こんなに瀬の強いところでは、とても泳げないなあ」と感嘆すると、結核の第三期の基次郎は笑みを浮かべて「泳げますよ。泳いでみせましょうか」と着物を脱ぎ、たちまち橋の上から飛び込んでしまった。千代は「この人は危ない」と感じ、「或る感情」を自分に持たせて気を引きたいのだなと思った。千代も基次郎の宿の部屋に遊びに行くこともあり、作品以外にも基次郎の不思議な魅力に次第に惹かれていった。 三好達治も千代に惹かれており、三好と基次郎の間に競い合いのような確執が生れた。9月になり、湯ヶ島に残ったのは、三好と千代と基次郎だけになった。ある夜には、「湯川屋」近くの猫越川で真裸の基次郎と三好が肩を組んで何やら泣き喚き、大きな石にへばりついて、まるで狂ったような叫び声を上げていたこともあった。しかしその後、三好は萩原朔太郎の妹・アイに一目惚れし、千代への関心は遠のいた。 千代が東京へ戻ると、基次郎は千代に会いたい一心で何度か上京することもあり、周囲にも基次郎の本気の恋は気づかれていた。中谷孝雄の家に泊った基次郎は、宇野千代宛ての長い手紙を書いていたという。ある日には、すぐ湯ヶ島へ帰ると言いながらソワソワして、袖のほころびを見つけた平林英子(中谷の妻)が、縫ってあげると言うのをぎこちなく断わり、それまでにないような素ぶりで馬込文士村に出かけていった。 梶井さんを送り出してから、私はしばらくぼんやりしていたが、ふと胸の中に楽しい想像のようなものが湧いてきて、思わず頬笑まずにいられなかった。――梶井さんには、あのほころびを縫って貰いたい人が、今日の訪問先にいたのではなかろうか。そのひとは美人で聡明で親切である。梶井さんの袖のほころびをすぐみつけて「おや、お袖がほころびていますわ。縫ってあげましょう」と云ってくれるに違いない。 — 平林英子「梶井基次郎」 基次郎と千代はお互い惹かれ合い、千代は基次郎のことを尊敬していた。千代と親しかった詩人・衣巻省三によると、むしろ恋多き女の千代の方が積極的であったという。なお2人が交わした多くの書簡や、千代に関する基次郎のノートは遺されていない。 私は梶井を尊敬してゐたのでせうか。或ひは梶井を恋ひしてゐたのでせうか。さうとは自分でも気が付かずに、梶井に対して、恋ひしてゐるものしか持たない心持を持つてゐて、自分では夢にもさうとは思はないのに、周囲にゐる人たちが、はっきりさうと決めてゐた、さう言ふ状態だつたのでせうか。(中略)男と女の間には、真の友情は成立たないものです。多少に拘らず、恋情に似た感情が混ざらないと、友情もまた、成立たないもののやうに、私は思ふのです。 — 宇野千代「私の文学的回想記」 千代と基次郎の噂が届いていた馬込文士村の或る一夜、尾崎と基次郎の確執は深まり、ついに大喧嘩直前までいった危うい事件もあった(詳細は梶井基次郎#宇野千代をめぐってを参照)。その事件の夜、基次郎は宿泊した萩原朔太郎の家で一晩中血反吐を吐き、翌朝湯ヶ島へ帰っていった。
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