宇野宗佑と大黒座
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宇野宗佑はその著書『中仙道守山宿』(1984年)で「貸火鉢」の一章を割き、大黒座について記述しており、宇野の人物像を描いた『宇野宗佑・全人像』(1988年)にも、同章から多く引用されている。同館を創業し経営した松下治三郎を「桜井屋の治三はん」と呼び、従来の守山町では東門院守山寺の境内や守山煉瓦(野洲郡物部村大字浮気、1918年10月開業)の敷地内での露天上映しかなかったところに、新たにつくられた映画館に親しみをもって接している。「桜井屋の敬治クン」こと松下敬治は松下治三郎の甥であり、宇野の幼友だちであり、敬治とともに同館の宣伝用チラシを撒いたりしている。宇野は、同館が開館した1929年4月、満6歳で吉身尋常小学校(現在の守山市立吉身小学校)に入学している。 宇野は1943年(昭和18年)2月1日、満20歳で学徒出陣により徴兵され、シベリア抑留を経て1947年(昭和22年)10月15日に故郷に引き上げてくる。宇野が『ダモイ・トウキヨウ』(葛城書房)を上梓したのは翌1948年11月(1949年とも)、田口修治のシュウ・タグチ・プロダクションが製作、東宝が配給した劇映画『私はシベリヤの捕虜だった』が公開されたのが1952年4月3日である。同作の原作が宇野の『ダモイ・トウキヨウ』であることから、同館で試写を行い、そのときに宇野は舞台挨拶を行ったという旨の記述が『中仙道守山宿』にあり、『宇野宗佑・全人像』には同館の壇上にいる宇野の写真が掲載されている(右写真)。同作を同館で上映するにあたり、宇野は経営者の松下治三郎らと打ち合わせをしていたところ、宇野の父の宇野長司(宇野超爾)が映画に写りこむ「天皇制打倒」のビラにものいいをつけたという。そのため、同館での上映では、該当部分をカットしたヴァージョンで上映されたのだという。
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