宇野常寛による解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:10 UTC 版)
宇野常寛は、富野由悠季の発言の変遷と、ガンダムシリーズを生み出した時代の社会情勢や富野自身が置かれていた状況を照らし合せつつ、作品で描かれたテーマ性の観点から、ニュータイプの位置づけを評論している。宇野はニュータイプの概念のモチーフを、革命に失望した後の「世の中ではなく自分の内面を変える」という、ニューエイジ思想をはじめとした若者文化にあるとしつつも、情報化社会の感性に適応した若者世代の比喩でもあったとする。宇野の解釈では、そうした概念は未成熟なまま虚構を通じて社会と関わるネオテニー(幼態成熟)的な概念であり、親子の血筋や性差に縛られた家族的なものと相対する疑似家族的な共同体を体現するものであるとされる。一方、富野がニュータイプを主人公の急成長に説得力を持たせるために用い、その成長を「大人への成熟」ではなく「超越者への覚醒」として描いたことが、架空年代記の中の成長物語に仮託して現実を描こうとした『機動戦士ガンダム』初期の構想を破綻させ、やがて富野自身を呪縛するものになっていったと評する。 宇野は、富野が描こうとした『機動戦士ガンダム』の物語を、矮小な存在としての家族(アムロの父親であるテム・レイ)の喪失に始まり、父親が家族を省みずに没頭した工業製品に過ぎないもの(ガンダム)を身体として与えられた主人公が、ニュータイプとしての変化に適合することによって血縁の呪縛を乗り越え、疑似家族的な共同体へと帰還することで、「父」にならない成熟モデルを描いていると定義する。ニュータイプ的な概念は後年の『伝説巨神イデオン』におけるイデ、『聖戦士ダンバイン』におけるオーラ力といった形で、ガンダムシリーズ以外の富野作品の中で引き継がれていくが、富野自身は『機動戦士ガンダム』の結末で示された理想としてのニュータイプには懐疑的で、やがてニュータイプという概念に仮託して描こうとした現実に失望するようになり、富野の失望感はガンダムシリーズの劇中で、理想化されたニュータイプの象徴である主人公と敵対する側の思想へと色濃く反映されていったとする。 富野にとってニュータイプの概念は、時代に対する批評を表現するための手段となり、その描かれ方は否定的なものへと変化していった。そうした中で富野は『機動戦士Ζガンダム』で、ニュータイプ同士の感応が象徴する情報化社会の未来を、相互理解ではなく、相容れない同士がエゴを衝突させる決定的な断絶となることを予見していたと宇野は指摘する。つまり宇野によれば、TwitterのようなSNS上で不毛な論争を繰り広げる人々こそが、富野が予見していたニュータイプの現実の姿である。宇野の解釈では、『Zガンダム』の主人公カミーユ・ビダンはニュータイプへの覚醒を通じて相手を相容れない敵として認識し、死を救済として肯定するような危険思想に傾倒した結果、発狂し破滅した者と解される。また宇野によれば、映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で描かれた敵役シャア・アズナブルの人類に対する絶望は、富野自身が作品を通して描こうとしてきた「ニュータイプ」の概念への失望感を反映したものであるという。宇野は『Ζガンダム』の後半以降にしばしば見られる、ニュータイプが発現する念動力や霊能力といったオカルティックな能力の一面を、ニュータイプの概念が提示される以前の超能力描写に後退するものとし、富野がニュータイプの概念を肯定的に見ることができなくなった結果であると評する。 宇野は、富野の問題意識は最終的に、ニュータイプを更に推し進めた思想が『イデオン』や『∀ガンダム』で描かれてきたような人類を裁く人造神と再び対峙し、今度こそ試練を克服する物語へと帰結すべきだったと批評しつつ、『機動戦士ガンダムF91』以降から『ガンダム Gのレコンギスタ』にかけての富野が、母胎への回帰や輪廻転生、ニューエイジといった古びたテーマへと後退していると指摘している。例えば『ガンダムF91』は、母親との和解を描くことで、当初は対立する概念であったニュータイプと(血縁的な)家族的共同体の和解を試みたものと読み解けるが、フィクションの中で綺麗事を描くことに関心のなかった富野の失望感は父性的な象徴としての敵役である鉄仮面ことカロッゾ・ロナへと投影されており、ニュータイプは人の革新ではなく家族論へと縮退していると宇野は評する。宇野によれば、1998年の監督作品『ブレンパワード』は、(ガンダムシリーズとは異なる作品ながらも)テーマ的には行き詰まったニュータイプ思想の幕引きと読み解くことができるとしている。宇野は、2005年から2006年にかけての劇場版『機動戦士Ζガンダム』(新訳Ζ)における路線の変更についても、富野は当時の問題意識を取り下げたにすぎず、ニュータイプの概念をアップデートするものではないと評している。
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