幻視・錯覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 04:23 UTC 版)
梶井基次郎の作品には、幻視や幻覚を扱ったものが散見されるが、この『器楽的幻覚』執筆前後には、『筧の話』のテーマである〈小さな水のせゝらぎの音〉から導かれる幻視や錯覚、〈眼を裏切る音〉が神秘な感情を持って聴こえる主題などが草稿に綴られている。また『闇の絵巻』の中でも触れられている夜路の天城越えを決行するなど、強い不安を感じていた精神状態の時期でもあった(詳細は闇の絵巻#天城越えを参照)。 この同じ11月には、前項で述べた「義太夫の会」の体験をしているが、同時期には、山裾を歩く自分自身を「落合楼」(最初に1泊だけした宿)の上の高台から幻視している〈抒情詩なるもの〉を綴っている。 昨日書いた抒情詩なるものを見せてやらうか、これは落合の上の下田街道から下を見ると一帯の風景が見えるだらう、左の方に世古の滝へゆく近道が向ふ山の山裾を廻つてゐるね、それを見ながらの抒情詩と心得てくれ、 この展望を下りて 彼方なるかの山裾をめぐらん 山裾は広く 路は細ければ われら 如何に少さく見ゆならん あゝ われら如何に少さく見ゆならん これでは云ひたりない、然し云ひ足りてないところに作者の誦して尽きない感興がある、これはもとでで これから小説を一つ作るつもり、するとその感興はなくなる。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月11日付) 「義太夫の会」の翌月の12月25日には、湯ヶ島一帯を巡回している大神楽(三島から来訪)が世古の滝と西平にもやって来て、鉦、太鼓、笛、三味線が鳴り響く中、太陽光にきらきら光る剣を振って踊る獅子舞を見物している。基次郎は、仮面が生きて動いているような錯覚を感じ入り、強く惹かれた。 僕は獅子が剣を振つておどるのが一番好きです、「仮面をつけたことによつて起る錯覚」といふのは実に芸術的です、僕はあの仔細らしい獅子の面が面白くてならなかつた。能狂言で面が動くやうに見えるといふのは本当でせう、寧ろ当然のことでせう。僕は面を愛します、また面を愛する人を愛します、夕方裏山へのぼつて行つたら彼等が朝日屋の裏座敷へ泊つたことを知りました、彼等も一種の「伊豆の踊子」です裏山や神楽の泊りし小窓哉 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年11月26日付) こういった本来見えないものを視る基次郎の認識や、俯瞰的な視点、聴覚と視覚から導かれる錯覚や幻視から言葉を紡いでゆき、作品の形成となった。
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