幻視と神からの声
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 20:11 UTC 版)
「ジャンヌ・ダルク」の記事における「幻視と神からの声」の解説
ジャンヌが目にした聖人たちの姿と神からの声は、今でも興味の的となっている。研究者たちのほぼ一致した見解としては、ジャンヌの信仰心が揺るぎないものだったということである。ジャンヌは、神からの啓示を受けたときに幻視したのは、聖マルグリット、聖カトリーヌ、そして大天使ミシェルだったと語っている。しかしながら、ジャンヌが幻視したのが間違いなくこの3人であったかどうかに関しては曖昧な点もある。ジャンヌの身に起こったことは、間違いなく聖なる啓示だったと考えるカトリック教徒もいる。 ジャンヌの幻視や神の声を聴いたという神秘体験に関する主たる情報源は、ジャンヌが激しく糾弾された異端審問の記録である。この記録にはジャンヌが自身が裁判の進行に反抗し、神秘体験に関する尋問への宣誓供述をすべて拒否したことが記されているため、ジャンヌの神秘体験に対する研究も議論の的となっている。ジャンヌは、異端審問で証言することがかつてシャルル7世との間に交わした機密保持の誓いを破ることになると訴えていた。これら現存している異端審問の記録の内容が、偏った法廷のでっち上げなのか、ジャンヌがシャルル7世との機密を守るためについた嘘なのかは判明していない。歴史家のなかには、ジャンヌの信仰心の顕(あらわ)れだといわれる神秘体験については言及せず、ジャンヌの実際的な側面のみを研究するものもいる。 ジャンヌの軍事的側面の研究者ケリー・デヴリーズは次のように述べている。 (ジャンヌが見たとする聖人たちの)幻視や幻視の信憑性は、ジャンヌの軍事的資質を考える上で重要な要素ではない。真に重要なことは、ジャンヌの軍事指揮官としての資質が神からの賜物だと「彼女自身が」信じていたということだ。 — DeVries, p. 35. ただし、ジャンヌと同時代の記録も20世紀近くの歴史家たちも、ジャンヌは心身ともに健全だったということで、ほぼ意見の一致をみており、現代の学者の多くが、ジャンヌの神秘体験を精神医学あるいは神経医学の観点から説明しようとしている。ジャンヌの幻視の原因となった症例として、てんかん、偏頭痛、結核、統合失調症などが可能性として考えられている。ただし、ジャンヌの生涯に関する情報が不足していることもあり、これらの仮説の中で定説といえるものは存在しない。医学誌『ニューロサイコバイオロジー』で側頭葉結核腫に関する論文を発表した2人の医学者[誰?]は、同論文でジャンヌの神秘意見を疾病に求める傾向に疑義を呈している。 最終的な結論を出すのは困難である。しかしながら、重篤な疾病である慢性結核に「この患者」が罹病していたとは考えにくい。暮らしぶりや活動力からすると重病に罹っていたという可能性はありえない。 ジャンヌが加熱殺菌されていない牛乳を飲んだために牛結核症に罹患したとする説もあるが、歴史家レジーヌ・ペルヌーは、加熱殺菌されていない牛乳を飲むだけでジャンヌのような恩恵にあずかることができるのであれば、フランス政府は牛乳の加熱殺菌を禁ずる法令を出すだろうと一蹴している。 ジャンヌが精神的疾患に罹患していたという説の反論として、ジャンヌがシャルル7世の宮廷で支持を得ていたことが挙げられている。シャルル7世の父であるフランス王シャルル6世が精神を病んでいたこともあり、シャルル7世は「精神障害者」を見極めることができたはずだとする。シャルル6世は「狂気王シャルル」と呼びならわされており、その治世下の廷臣や軍人の多くから、その狂気に満ちた振る舞いがフランス凋落の一因だとみなされていた。その父たる先王シャルル5世も、シャルル6世の精神が繊弱であることを認識していた。シャルル7世のフランス王位継承を剥奪するトロワ条約の締結も、シャルル6世の血を引くシャルル7世が父王と同様の狂気に陥る可能性が背景にあった。シャルル6世の狂気の血は次世代にも受け継がれ、イングランド王ヘンリー6世が1453年に精神疾患に罹病している。ヘンリー6世はシャルル7世の甥で、シャルル6世の孫にあたる血筋だった。ジャンヌがシノン王宮に到着したときの印象を、王室顧問官ジャック・ジェルが記録している。 聖人の幻を見たなどという、影響されやすい農夫の娘との会話で安易に信念を変えてはならない。諸外国との問題については合理的であるべきだ。 シャルル7世の宮廷では、精神衛生の問題に関しては用心深く懐疑的だった。 ジャンヌが統合失調症などの精神疾患に罹病していたことを示す兆候は皆無である。死の直前までその頭脳は明晰であり、復権裁判でもジャンヌが明敏(めいびん)だったことが証言されている。 彼ら(異端審問の裁判官たち)は次々と質問を変えて(ジャンヌを)攻めたてましたが、彼女の答えは用心深く、優れた記憶力の持ち主であることは明らかでした。 尋問に対するジャンヌの明晰な答えを恐れた裁判官たちは、この異端審問を非公開裁判とすることを余儀なくされた。 精神疾患は必ずしも重篤な認識機能障害を伴うとは限らない。それでもなおジャンヌの神秘体験は、現在の精神疾患の診断基準と照らし合わせると明らかに有害な精神状態であるとする説も根強い。アメリカ精神医学会が定めた『精神障害の診断と統計マニュアル』には統合失調症の兆候として、的外れな会話、緊張病性行動、情動の平板化、失語症、意欲喪失などが挙げられている。しかしながら、このような症例はジャンヌには当てはまらない。ただ統合失調症の病態は非常に多様で幻聴が聞こえる以外の症状が全く存在しない例も存在する。しかし、天使などの幻視は比較的まれである。 ジャンヌの多様な経験から、その精神状態を説明できるとする精神科医もいる。イェール大学の心理学教授ラルフ・ホフマンは、「神の声」などの神秘体験や幻視が必ずしも精神疾患の兆候を意味するものではないと指摘した。そして、専門的な言葉ではなく単に「インスパイアド・ヴォイス」とホフマンが解説した事例に、ジャンヌの神秘体験が当てはまるとしている。
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