戦中から戦後へ
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第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。同資料によれば、当時の同館の経営は松竹(白井信太郎)、支配人は林三郎、観客定員数473名である。1944年(昭和19年)11月2日付の『大阪朝日新聞京都版』によれば、同日、大日本興行協会京都府支部の決定により、京都市内の映画館のうち11館が同日付で休館に入り、倉庫・雑炊食堂に転換することになった。このとき同館は、同市面で同じ新京極に分類された京極日活館(のちの新京極シネラリーベ)、河原町映画劇場、あるいは西陣地区の長久座(のちの西陣長久座)、西陣大映劇場(のちの西陣大映)等とともに休館対象となり、同日付で休館した。 戦後は早くに復興しており、1950年(昭和25年)9月1日には中京区内で営業する18館に数えられている。当時の同館の経営は千日土地建物(のちの日本ドリーム観光)、支配人はのちの同社取締役の長谷川渉、観客定員数は573名、興行系統はセントラルモーションピクチュアエクスチェンジ(CMPE, 連合国軍最高司令官総司令部内、1952年解体)系列の二番館であり、アメリカ映画を封切りから1-2週遅れで公開する映画館であった。長谷川渉は、当時、同社が経営する京極大映(のちに合併して京極東宝)の支配人も兼務していた。1954年(昭和29年)12月15日には、千土地労働組合が越年資金支給をめぐってストライキに突入し、同館および京都劇場(河原町三条下ル)、文化映画劇場(1961年4月閉館、河原町蛸薬師上ル)、京洛劇場(1970年閉館、新京極六角東入ル)の4館で激しい闘争が行われたという記録が残っている。 1970年代からは成人映画館に業態を変更した。1977年(昭和52年)6月24日には、当時、八千代キネマ株式会社の代表取締役社長であった元松竹取締役で白井和夫(白井松次郎の長男)が満50歳で死去している。1984年(昭和59年)6月23日に公開された『瀬戸内少年野球団』(監督篠田正浩、配給日本ヘラルド)では、同館でロケーション撮影が行われ、その時に制作された『カサブランカ』(監督マイケル・カーティス、日本公開1946年6月20日)の劇用看板は、末年まで同館で掲示された。1988年(昭和63年)の日活ロマンポルノの終焉以降は、新日本映像・大蔵映画が製作・配給するピンク映画を三本立てで週替わり、連日オールナイト興行を行っていた。同館の経営は、1993年(平成5年)に日本ドリーム観光がダイエー傘下に入った後に同社から離脱した。2002年(平成14年)秋からは、日本のピンク映画に並行し、輸入映画のポルノ、いわゆる「洋ピン」を番組に取り入れていた。このころの同社の経営は八千代キネマ株式会社、同社代表は白井松太郎、支配人は岡本正義、観客定員数は2階席も含めて129名であった。 前日からのオールナイト興行の最終回終了をもって、2007年(平成19年)12月29日未明、閉館した。同館の最後の支配人は岡本正義であった。同館の建物は現存しており、現在、古着屋チェーン「WEGO京都店」が入居している。
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