戦中から戦後の解散へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:15 UTC 版)
「王子製紙 (初代)」の記事における「戦中から戦後の解散へ」の解説
大合同から4年後の1937年(昭和12年)から日中戦争が、さらに4年後の1941年(昭和16年)から太平洋戦争が始まるが、戦時中の企業経営は戦争遂行という国策に沿ったものにならざるを得なかった。その例に、中国の占領地での製紙会社の運営受託、フィリピン・マレーシア・インドネシアなど占領地での工場運営、レーヨン(人造絹糸)用パルプの増産、製紙工場の軍需工場への転換、がある。軍需工場へ転換されたのは内地では8か所で、1943年(昭和18年) - 1944年(昭和19年)に休止され、他社に売却されたり傍系会社として分離されたりした。 太平洋戦争末期にはアメリカ軍による空襲の被害にあった。ほとんどが軽微な被害ですんだものの、兵庫県の神崎工場だけはほぼ全滅という被害を受け、戦後になるまで再開できなかった。 1945年(昭和20年)8月15日の敗戦により、占領地や満洲、朝鮮、樺太にある資産のすべてを喪失した。直営工場だけでみても10か所あり、戦後は国内に残った15工場だけで運営することになる。生産能力は戦前ピーク時の3割に落ち込んでいた。 終戦直後から、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の財閥解体政策の対象とされた。王子製紙は「解体に該当するような企業とはいえないのではないか」と反論したが、解体の方向へと進んだ。まず、1946年(昭和21年)1月11日に「制限会社」に指定された。これにより当時23社存在した傍系会社が王子製紙の下から独立した。しばらく経営陣とGHQとの交渉が続けられたが、最終的に1949年(昭和24年)1月7日、GHQから解体指令が出された。 これを受けて1949年(昭和24年)8月1日、過度経済力集中排除法に基づき王子製紙の解体が実行された。後継会社として苫小牧製紙株式会社・本州製紙株式会社・十條製紙株式会社の3社が設立され、王子製紙の資産はこの3社に継承された。王子製紙は解散して清算会社となり、12年後の1961年(昭和36年)11月24日に清算業務が終了したことにより完全に消滅した。 後身にあたる十条製紙(現・日本製紙)が王子工場跡地に建設した複合レジャー施設「サンスクエア」には「洋紙発祥之地」と題した石碑が設置されている。
※この「戦中から戦後の解散へ」の解説は、「王子製紙 (初代)」の解説の一部です。
「戦中から戦後の解散へ」を含む「王子製紙 (初代)」の記事については、「王子製紙 (初代)」の概要を参照ください。
- 戦中から戦後の解散へのページへのリンク