戦中から終戦へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:27 UTC 版)
「横浜市営バス鶴見営業所」の記事における「戦中から終戦へ」の解説
日本が太平洋戦争に突入していく中、燃料や資材の統制による不足から多くの路線が徐々に休止されていったが、軍需工場への労働者輸送を担う当車庫所管路線は規模を縮小しながらも優先的に配車された。資材不足の中、1944年12月26日には市電が生麦から鶴見へ延伸されていることからも当地区の交通需要の勢いが伺える。 横浜大空襲直前にあたる1945年5月の運行系統図では、6路線中4路線が当地区の運行となっている。 横浜大空襲があった1945年5月29日には、鶴見営業所は40台の車両を運行していたが浅間町営業所と比べれば被害は少なく、6月1日から鶴見駅西口 - 末吉橋間の運転を再開、終戦後の同年10月1日には鶴見駅西口 - 生麦間の運転を再開した(後に末吉橋まで延伸)。 車両は戦時下からのガソリンカーや木炭バスに加え、戦後の燃料不足を補うため、1946年8月14日からは電気局技術陣自作の電気バスとバッテリー充電設備が完成し順次運用された。電気バスの1回の充電での航続距離は10km程度であったという。木炭バスは1948年まで、電気バスは1950年8月まで、ガソリンカーは1952年まで走り続けた。その後の特徴的な車両としては、輸送力強化のために大黒町線に投入された日野自動車製トレーラーバスなどがある。
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