戦中のロッパとは? わかりやすく解説

戦中のロッパ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:21 UTC 版)

古川ロッパ」の記事における「戦中のロッパ」の解説

1940年10月1日東宝傘下の全演劇団を東宝国民劇団移動隊に統合ロッパ移動演劇班を率いて地方巡業を行う役割を担うこととなった1941年1月東京有楽座ロッパ開拓者』『日本の姿』で再び舞台カムバックすると、大東亜戦争中は、『花咲く港』『歌と兵隊』『スラバヤ太鼓』『レイテ湾』『歌と宝船』などの舞台や『突貫駅長』『勝利の日まで』などへの映画出演地方への慰問巡業などを精力的にこなしている。だが、この頃から方針違いにより菊田一夫対立し菊田同調する団員との軋轢や、当局による度重なる検閲統制、さらに1944年2月には戦局悪化のため閣議決定された決戦非常措置要綱によって、有楽座帝劇閉鎖されるなど、多く難問悩まされた。 戦時中ロッパ愛国的であり、「僕は、何処までも娯楽のために挺身するため、すべての用意をすべきだ」 と自身日記あるように、芸能活動通じて国民元気づけるスタンス取りつづけたが、理不尽な弾圧規制には真っ向から反発し1943年7月には当局から芸名を「ロッパ」のカナ文字使用から「緑波」に変えるように要請され憤慨余り腹立つアダ名なら兎に角ロッパというのは俺の名だ。それを片仮名で書いちゃあ何故悪い?もう少し警視庁へのり込んであばれてやらうかと思った」とその想い日記書きつけている。そして警察当局へのあてつけに「フルカワ緑波コウエンと書いた新聞広告掲載しようと企てたりと、反骨精神衰えることがなかった。 戦争末期1945年当局国民士気上のために従来方針改め喜劇への検閲廃止したロッパ渋谷東横映画劇場本拠地とする公演加え空襲下の京浜地区工場への慰問活動行っている。この年4月2日付の『東京新聞』には『われらチンドン屋』と題した手記寄稿し「かくて、われらは、アチャラカ芝居蔑称され、低級喜劇(尤も、高級とよばれたことも一度ある。これは、高級娯楽追放の日だった。)と嘲笑されたところの、われらのポンチ絵本は、今こそ、本来の蠧のまま見えることができるのだ。………われらは挺身して都民への永年恩返しをしなければならない。……滑稽芝居体当たりだ。われらは此の時代チンドン屋世紀のヂンタ屋であらねばならない」と悲壮な覚悟述べている。また、東宝月給ギャラとするラジオ出演もちかけるなど、困難な状況にもひるむことなく積極的な活動続けていた。 そんな中1945年5月25日には空襲下落合自宅焼失する。幸いロッパ自身東北方面巡業中であり、家族疎開していて難をのがれたが、多く貴重な文献日記防空壕埋めていたので無事)を失った当時日記でも「本が惜しかった。一冊も疎開させなかったのが口惜しい」と無念さをにじませている。7月に一旦帰京田園調布知人宅に身を寄せ空襲下の最悪条件下にも屈せずラジオ出演慰問活動続けながら終戦迎えることになる。

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