白井信太郎とは? わかりやすく解説

白井信太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 06:38 UTC 版)

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白井 信太郎(しらい しんたろう、1897年9月14日 - 1969年6月23日)は、演劇・映画の興行師松竹重役。

来歴・人物

松竹を創始した白井松次郎大谷竹次郎兄弟の末弟で、1914年に松次郎の養子となり継嗣となる。白井姓は兄弟の母方の姓[1]。松竹合名会社に入り1919年、2代市川猿之助松居松葉らのヨーロッパ行きの団長となり、映画事情を視察して帰国。信太郎の建言を聞き入れて兄たちは松竹キネマを立ち上げ、信太郎は初代蒲田撮影所長になった[1]。1920年松竹キネマ合名会社社長。1921年松竹キネマ株式会社発足で社長を大谷に譲る。1926年には衣笠貞之助と提携して衣笠映画連盟を作り、松竹配給の時代劇映画を製作[2]。1928年松竹興業株式会社取締役。1929年大阪の松竹土地建物興業株式会社専務取締役[3]。松竹京都撮影所所長となり、溝口健二の1939年「残菊物語」、1941年「元禄忠臣蔵」では総監督を務める。このほか1931年新興キネマ株式会社を大谷竹次郎らと設立。松竹株式会社副社長となる。

戦後1946年千日土地建物(後の千土地興行、日本ドリーム観光)社長となり、大阪歌舞伎座に進駐軍向けの特殊慰安所(キャバレー)を設置し、特殊慰安所施設協会会長にも就任するが、1947年公職追放され辞職。追放解除を受け再び千土地興行社長に就任するも、経営不振の責任をとり1954年辞職。1952年関西歌舞伎俳優協会会長、1952年歌舞伎座取締役、1956年千土地興行会長、1960年歌舞伎座監査役、1961年松竹株式会社相談役、1962年松竹社長に大谷竹次郎、副社長に城戸四郎が就任すると、相談役を辞任、1968年勲二等瑞宝章受章。

息子に鮮雄(1924年生)[4]。娘に長女・孝子(1929年生)、三女・裕子(1933年生)[4]

脚注

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  1. ^ a b 「ラッパの王国」一炊の夢~日本映画の栄光と悲惨中川滋弘、芸術 : 大阪芸術大学紀要 (38), 9-20, 2016-02
  2. ^ 松竹下加茂撮影所京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト
  3. ^ わが劇場の直営権にアメリカの手フォックス映画が松竹株を買う土地建物興行の五割余を両社の間に交渉進む 大阪朝日新聞 1929.12.13
  4. ^ a b 白井信太郎『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』 (人事興信所, 1941)

外部リンク

  • 白井信太郞君『財界の前線に躍る人々』登尾源一 (新興実業社, 1935)




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