京都へ、そして終焉とは? わかりやすく解説

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京都へ、そして終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 09:36 UTC 版)

阪東妻三郎プロダクション」の記事における「京都へ、そして終焉」の解説

京都戻った阪東の新興キネマ合流第1作は、「阪東妻三郎プロダクション」の名はひっこめて、白井信太郎総指揮伊藤大輔監督録音マキノ正博京都音映)による阪東初のトーキー作品『新納鶴千代であった同作同年10月15日公開された。阪東はトーキーでの演技苦戦した第2作からは「阪東妻三郎プロダクション」によるトーキーということになった犬塚監督による『砂絵呪縛 森尾重四前篇』は、片岡千恵蔵プロダクション衣笠十四三監督作『初祝鼠小僧』、嵐寛寿郎プロダクション山本監督作右門捕物帖 晴々五十三次 乱麻篇』と同時上映同年12月31日公開され、阪東・片岡千恵蔵嵐寛寿郎揃い踏み新興キネマ豪華な正月作品となった明けて1936年昭和11年2月犬塚監督による『砂絵呪縛 森尾重四後篇』は公開され同年は6本を製作したが、6本目長尾監督オリジナル脚本による『怒濤一番乗』を最後に同年末で「阪東妻三郎プロダクション」は正式に解散となった11年にもわたる同社歴史幕を閉じた。阪東は35歳になっていた。 阪東はしばらくの休養経て、自らもマキノトーキー製作所解散したばかりのマキノ正博友情と、日活実権握っていた松竹大谷竹次郎社長の手により、1937年昭和12年)、日活京都撮影所入社することとなる。阪東の日活入社第1作は、おなじく同社入社したマキノ正博監督作恋山彦 風雲の巻』『恋山彦 怒濤の巻』、同年末にはおなじくマキノ正博監督の『血煙高田の馬場』と、トーキーにおける阪東の華々しい復活戦がくりひろげられるのはこの後の話である。

※この「京都へ、そして終焉」の解説は、「阪東妻三郎プロダクション」の解説の一部です。
「京都へ、そして終焉」を含む「阪東妻三郎プロダクション」の記事については、「阪東妻三郎プロダクション」の概要を参照ください。

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