京都へ、そして終焉
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「阪東妻三郎プロダクション」の記事における「京都へ、そして終焉」の解説
京都に戻った阪東の新興キネマ合流第1作は、「阪東妻三郎プロダクション」の名はひっこめて、白井信太郎総指揮、伊藤大輔監督、録音マキノ正博(京都音映)による阪東初のトーキー作品『新納鶴千代』であった。同作は同年10月15日に公開された。阪東はトーキーでの演技に苦戦した。 第2作からは「阪東妻三郎プロダクション」によるトーキーということになった。犬塚監督による『砂絵呪縛 森尾重四郎 前篇』は、片岡千恵蔵プロダクションの衣笠十四三監督作『初祝鼠小僧』、嵐寛寿郎プロダクションの山本松男監督作『右門捕物帖 晴々五十三次 乱麻篇』と同時上映で同年12月31日に公開され、阪東・片岡千恵蔵・嵐寛寿郎揃い踏みの新興キネマの豪華な正月作品となった。 明けて1936年(昭和11年)2月に犬塚監督による『砂絵呪縛 森尾重四郎 後篇』は公開され、同年は6本を製作したが、6本目の長尾監督のオリジナル脚本による『怒濤一番乗』を最後に、同年末で「阪東妻三郎プロダクション」は正式に解散となった。11年にもわたる同社の歴史は幕を閉じた。阪東は35歳になっていた。 阪東はしばらくの休養を経て、自らもマキノトーキー製作所を解散したばかりのマキノ正博の友情と、日活の実権を握っていた松竹の大谷竹次郎社長の手により、1937年(昭和12年)、日活京都撮影所に入社することとなる。阪東の日活入社第1作は、おなじく同社に入社したマキノ正博の監督作『恋山彦 風雲の巻』『恋山彦 怒濤の巻』、同年末にはおなじくマキノ正博監督の『血煙高田の馬場』と、トーキーにおける阪東の華々しい復活戦がくりひろげられるのはこの後の話である。
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