嵐寛寿郎プロダクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:18 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動嵐寛寿郎プロダクション(あらしかんじゅうろうプロダクション)は、かつて京都に存在した映画会社である。1928年(昭和3年)4月にマキノ・プロダクションを片岡千恵蔵らとともに脱退したスター俳優嵐寛寿郎が設立したスタープロダクションであり、貸しスタジオの双ヶ丘撮影所で5本のサイレント映画を製作した「第1期」(1929年2月解散)と、1931年(昭和6年)ふたたび同地に撮影所を持ったのちに太秦へと移転した「第2期」(1937年解散)がある。70本以上の作品を生み出し、また山中貞雄を映画監督としてデビューさせたことでも知られる。略称寛プロ(かんプロ)。
略歴・概要
第1期
1927年(昭和2年)3月、マキノ・プロダクションに入社し、牧野省三の命名によって嵐和歌太夫から「嵐長三郎」に改名した嵐寛寿郎は、生涯の当たり役となる「鞍馬天狗」の役で『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』をもって華々しい映画デビューとなった[1]。わずか1年の間に28本[1](25本[2])もの映画に出演したが、翌1928年(昭和3年)4月に同社を退社、名も「嵐寛寿郎」と改めて、設立したのがこの「嵐寛寿郎プロダクション」(寛プロ)である。
同時期に片岡千恵蔵、山口俊雄、中根龍太郎、市川小文治らスター俳優がマキノを退社し、それぞれが設立したプロダクションと寛プロを含めた5社をもって「日本映画プロダクション連盟」を設立、マキノを退社した河合広始と田中十三が建設した京都・双ヶ丘の貸しスタジオ「日本キネマ撮影所」(双ヶ丘撮影所)[3]を共同で使用し、製作を開始した。またそれに先立つ同年4月、配給業者による中間搾取のない製作と興行の直結を訴える山崎徳次郎が「日本活動常設館館主連盟映画配給本社」を結成、5つのスタープロダクションを製作費と興行の面で支えることとなった[1]。
寛プロ設立第1作はやはり『鞍馬天狗』、「館主連盟」の主要館である神戸の「菊水館」を中心に同年7月12日に公開された。しかし「館主連盟」が7月末には瓦解、5つのプロダクションのうち3つが解散を余儀なくされていく。そのなかで片岡千恵蔵プロダクションと「寛プロ」だけが製作をつづけたが、設立第5作『鬼神の血煙』をもって解散、1929年(昭和4年)2月、嵐寛寿郎は東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)にスター級幹部俳優として迎えられることとなった[1]。
第2期
1931年(昭和6年)5月、ふたたび「嵐寛寿郎プロダクション」名義、東亜キネマ配給で嵐の主演作が発表され始める。第1作は『都一番風流男』で、4作がこのくくりで公開された[2]のちに、同年8月、東亜キネマ京都撮影所長の高村正次とともに嵐は東亜を退社、第2期「寛プロ」が設立され[1]、同年9月に帝国キネマから改組された新興キネマとの提携のもと、作品が発表される。嵐は俳優・スタッフを含めた50数名を率いて、双ヶ丘撮影所に拠点を構えた[1]。
第2期「寛プロ」作品は、新興キネマのドル箱となり、多くの作品を製作した。1933年(昭和8年)には撮影所を拡張、さらに1935年(昭和10年)4月には太秦に新撮影所を建設、「嵐寛寿郎プロダクション太秦撮影所」として移転した[4]。
ところが、1936年(昭和11年)になると松竹の専務取締役に就任した城戸四郎が新興キネマの製作指揮を行うようになり、提携しているスタープロダクションとの解約を推進した。同年12月には、阪東妻三郎プロダクション、高田稔プロダクションが解散を余儀なくされ、ついに翌1937年(昭和12年)、7月29日に公開された『御存知鞍馬天狗 千両小判』を最終作として、同年8月6日、第2期「寛プロ」は解散、110数名におよぶ全従業員を、永田雅一が所長をつとめる新興キネマ京都撮影所に預けることとなった[1]。
嵐は浪人の身となり、自由を謳歌したのち、1938年(昭和13年)に日活京都撮影所に入社した。
註
関連項目
- マキノ・プロダクション (牧野省三)
- 日本キネマ撮影所 (河合広始、田中十三)
- 日本映画プロダクション連盟
- 東亜キネマ
- 新興キネマ
- 阪東妻三郎プロダクション (阪東妻三郎)
- 市川右太衛門プロダクション (市川右太衛門)
- 高田稔プロダクション (高田稔)
- 嵐寛寿郎
外部リンク
- Arashi Kanjurô Production - IMDb(英語)
- 嵐寛寿郎 - 日本映画データベース
嵐寛寿郎プロダクション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/07 17:22 UTC 版)
すべて製作は「嵐寛寿郎プロダクション」、配給は「新興キネマ」、特筆以外はすべてサイレント映画である。 『鞍馬天狗 地獄の門』 : 監督吉田信三、1934年1月14日公開 『銭形平次捕物控 紅蓮地獄』(『紅蓮地獄』『紅連地獄』) : 監督山本松男、1934年4月25日公開 『兵学往来髭大名』 : 監督山上伊太郎、1934年6月14日公開 『馬子唄時雨街道』 : 監督山本松男、1934年8月11日公開 『喧嘩一代』 : 監督山本松男、1934年9月20日公開 『鞍馬天狗 第一篇 絨り首暗躍篇』(『鞍馬天狗 前篇』『鞍馬天狗 鉞組暗躍篇』) : 監督曾根千晴、録音マキノ正博、サウンド版、1934年12月31日公開 - 撮影、『鞍馬天狗 鉞組暗躍篇』の題・数秒の断片が現存(NFC所蔵) 『鞍馬天狗 第二篇 丁字屋敷活殺篇』(『鞍馬天狗 中篇』) : 監督曾根千晴、録音マキノ正博、サウンド版、1935年1月5日公開 『鞍馬天狗 第三篇 影義隊乱刃篇』(『鞍馬天狗 後篇』) : 監督曾根千晴、録音マキノ正博、サウンド版、1935年1月15日公開 『なりひら小僧 春霞八百八町』(『春霞八百八町』) : 監督マキノ正博・山本松男、録音マキノ正博、トーキー、1935年3月21日公開 『鬼伏せ頭巾』 : 監督後藤岱山、原作村上浪六、撮影田中十三、主演綾小路絃三郎・五十鈴桂子、製作エトナ映画社、トーキー、1935年製作・配給 - 脚本 『活人剣 荒木又右衛門』 : 監督・録音マキノ正博、トーキー、1935年8月15日公開 『鞍馬天狗 江戸日記 前篇』 : 監督山本松男、録音マキノ正博、サウンド版、1935年10月3日公開 『右門捕物帖 晴々五十三次 乱麻篇』 : 監督山本松男、サウンド版、1935年12月31日公開 『右門捕物帖 晴々五十三次 裁決篇』 : 監督山本松男、サウンド版、1936年1月10日公開 『子負ひ虫』 : 監督益田晴夫、トーキー、1936年1月15日公開 『安兵衛十八番斬り』(『中山安兵衛』) : 監督益田晴夫、サウンド版、1936年3月4日公開 『破れ合羽』 : 監督吉田保次、サウンド版、1936年7月3日公開 『又太郎大明神』 : 監督吉田保次、サウンド版、1936年8月13日公開 『鳴門秘帖 前篇 本土篇』(『鳴門秘帖 前篇』) : 監督吉田保次、トーキー、1936年11月22日公開 『鳴門秘帖 鳴門篇』(『鳴門秘帖 前後篇』) : 監督吉田保次、トーキー、1937年2月18日公開 『旅の風来坊』 : 監督仁科熊彦、トーキー、1937年4月22日公開 『御存知鞍馬天狗 千両小判』(『千両小判』) : 監督仁科熊彦、トーキー、1937年7月29日公開
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