エトナ映画社
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エトナ映画社(-えいがしゃ、1934年9月 設立 - 1935年4月 解散[1])は、かつて京都に存在した映画会社である。サイレント映画を主体に、トーキーも製作したが、半年という短命に終わった。
- ^ a b c d 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「御室撮影所」の記述を参照。
- ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「綾小路絃三郎」の項(p.21)を参照。同項執筆は奥田久司。
- ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「高木新平」の項(p.311)を参照。同項執筆は田中純一郎・奥田久司。
- ^ 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「マキノ映画都村健コレクション」の記述を参照。
- ^ あさぎり峠、日本映画データベース、2010年2月18日閲覧。
- ^ 「「エトナ映画社」全容判明 70年前 御室撮影所で映画製作」(2004年6月11日付、京都新聞)、リンク切れ
- ^ 西地域映画史聴き取り調査報告4 エトナ映画の軌跡
- 1 エトナ映画社とは
- 2 エトナ映画社の概要
- 3 外部リンク
エトナ映画社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 03:06 UTC 版)
エトナ映画社は、当初、島津製作所の新しいトーキーシステムを使用する映画会社として、田中伊助が1934年(昭和9年)7月に設立、『神崎東下り』(監督後藤岱山)を片岡千恵蔵プロダクションの嵯峨野撮影所を使用して製作、同年8月1日に公開したところから始まり、同年12月に高津小道具店(現在の高津商会)の高津梅次郎が所有していた御室撮影所約3,500坪(約11,570.2平方メートル)を買収、同年12月21日付で登記を移転し、エトナ映画社の撮影所となった。御室撮影所は、エトナ映画京都撮影所と改名し、翌1935年(昭和10年)1月から本格的に稼働を開始した。所長には、田中伊助の実弟、田中聖峰が就任した。即座に使用可能なのは事務棟のみであったため、同年2月、鉄筋ステージ新築、同年4月、ダークステージ新築にそれぞれ着手したが、同年5月、同社は20万円(当時)の欠損を抱えて、解散した。 「エトナ映画社」を参照
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エトナ映画社
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製作・配給は「エトナ映画社」、サイレント映画である。 『黄金菩薩剣』:監督稲葉蛟児、1935年2月14日公開
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