エトナ映画社とは? わかりやすく解説

エトナ映画社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/04 13:31 UTC 版)

エトナ映画社(-えいがしゃ1934年9月 設立 - 1935年4月 解散[1])は、かつて京都に存在した映画会社である。サイレント映画を主体に、トーキーも製作したが、半年という短命に終わった。

略歴・概要

かつて1925年(大正14年)に東亜キネマから独立した牧野省三が設立したマキノ・プロダクションが、等持院撮影所を東亜に譲り渡したさいに建設した御室撮影所を、同社の解散後、1932年(昭和7年)の正映マキノキネマ宝塚キネマが相次いで稼動させたが、いずれも解散した[1]

1934年(昭和9年)9月に田中伊助が出資して設立したのがこの「エトナ映画社」で、同撮影所を「エトナ映画京都撮影所」と改称して、映画を製作した。宝塚キネマから同地に残った後藤岱山や、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)から来た稲葉蛟児といったマキノ・プロダクション出身の監督をかかえ、マキノの敏腕宣伝部長都村健を宣伝部長に迎えた[1]。撮影部は1930年(昭和5年)にマキノ・プロダクションを大道具の河合広始とともに退社、太秦双ヶ丘に撮影所を建設し「日本キネマ撮影所」を設立した田中十三とその一派の岸雅夫、脚本部は日活京都出身の野村雅延、俳優部は右太プロでは浅香麗三郎、河合映画製作社では燕東三郎と名乗った綾小路絃三郎[2]、宝塚キネマから来た水原洋一や鳥人・高木新平新興キネマ五十鈴桂子らが主力となった。

9本の映画を製作したが、設立半年後の1935年(昭和10年)4月には解散した[1]。解散後の稲葉、後藤、綾野小路は極東映画社へ、田中はフリーランスに、水原はマキノ正博マキノトーキー製作所へ、五十鈴は大都映画を経て極東へ、高木は地方巡業の旅に出た[3]。宣伝部長の都村は通信合同社に入りジャーナリストの道を歩んだ[4]

同社が稼動した御室撮影所は、松竹キネマが接収し、松竹御室撮影所(しょうちくおむろさつえいじょ)となったが、同所で松竹キネマが製作したのは、伊藤大輔監督の『あさぎり峠』(1936年)のみであった[5]

2004年(平成16年)6月11日、同社の全容判明との記事が「京都新聞」に掲載された[6]

データ

  • 名称 エトナ映画社
  • 所在地 京都市右京区花園天授ヶ丘(現在の同市同区花園天授ケ岡町)
  • 代表 田中伊助
  • 宣伝部長 都村健

フィルモグラフィ

1934年
1935年
  • 霧隠忍術旅 監督各務二郎、原作桐葉亭豊念、脚本野村雅延、撮影岸雅夫、出演綾小路絃三郎水原洋一、小川雪子
  • 鉄の爪 監督後藤岱山、原作・脚本野村雅延、撮影田中十三、出演椿三四郎、石井寛治、松浦築枝、水原洋一、白川小夜子 ※トーキー、プリント現存
  • 黄金菩薩剣 監督稲葉蛟児、原作・脚本春日太郎、撮影大塚脩右、出演綾小路絃三郎、高木新平片岡左衛門五十鈴桂子葛木香一
  • 鬼伏せ頭巾 監督後藤岱山、原作村上浪六、脚本野村金吾、撮影田中十三、出演綾小路絃三郎、五十鈴桂子
  • 義人長七郎 監督稲葉蛟児、原作沖津白浪、撮影岸雅夫、出演綾小路絃三郎、片岡千代太郎、高木新平、小川雪子、五十鈴桂子、楠武夫、石井寛治、
  • 処女を護れ 監督後藤岱山、脚本野村雅延、撮影田中十三、出演五十鈴桂子、水原洋一

関連事項

  1. ^ a b c d 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「御室撮影所」の記述を参照。
  2. ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「綾小路絃三郎」の項(p.21)を参照。同項執筆は奥田久司
  3. ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「高木新平」の項(p.311)を参照。同項執筆は田中純一郎・奥田久司。
  4. ^ 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「マキノ映画都村健コレクション」の記述を参照。
  5. ^ あさぎり峠日本映画データベース、2010年2月18日閲覧。
  6. ^ 「エトナ映画社」全容判明 70年前 御室撮影所で映画製作」(2004年6月11日付、京都新聞)、リンク切れ
  7. ^ 西地域映画史聴き取り調査報告4 エトナ映画の軌跡

外部リンク


エトナ映画社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 03:06 UTC 版)

御室撮影所」の記事における「エトナ映画社」の解説

エトナ映画社は、当初島津製作所新しいトーキーシステムを使用する映画会社として、田中伊助1934年昭和9年7月設立、『神崎東下り』(監督後藤岱山)を片岡千恵蔵プロダクション嵯峨野撮影所使用して製作、同年8月1日公開したころから始まり同年12月高津小道具店(現在の高津商会)の高津次郎所有していた御室撮影所約3,500坪(約11,570.2平方メートル)を買収同年12月21日付で登記移転し、エトナ映画社の撮影所となった御室撮影所は、エトナ映画京都撮影所改名し、翌1935年昭和10年1月から本格的に稼働開始した所長には、田中伊助実弟田中聖峰就任した即座に使用可能なのは事務棟のみであったため、同年2月鉄筋ステージ新築同年4月、ダークステージ新築それぞれ着手したが、同年5月同社20万円当時)の欠損抱えて解散した。 「エトナ映画社」を参照

※この「エトナ映画社」の解説は、「御室撮影所」の解説の一部です。
「エトナ映画社」を含む「御室撮影所」の記事については、「御室撮影所」の概要を参照ください。

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