嵐寛寿郎プロダクションの設立
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「嵐寛寿郎」の記事における「嵐寛寿郎プロダクションの設立」の解説
1928年(昭和3年)4月、『新版大岡政談 前編・中篇』の2作で丹下左膳を演じたのを最後に、マキノから独立、嵐寛寿郎プロダクション(略称:寛プロ)を設立。独立の理由には、鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢があった。この独立に際して長三郎の名を返上し、葉村屋の宗家の名跡である「璃寛」からとった「嵐寛壽郎」を名乗り、以来生涯この名で通す。しかし、設立第5作の『鬼神の血煙』をもって寛プロは解散した。 1929年(昭和4年)2月、東亜キネマ京都撮影所にスター級幹部俳優として迎えられた。同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』でむっつり右門を初めて演じ、鞍馬天狗と並ぶ当り役となった。 1931年(昭和6年)5月、寛プロ名義、東亜キネマの配給で『都一番風流男』を発表。同年8月に東亜キネマ京都撮影所長の高村正次とともに東亜を退社。第2次寛プロを設立し、7年後の解散までに鞍馬天狗、むっつり右門、銭形平次を演じたほか、山中貞雄を抜擢して『磯の源太 抱寝の長脇差』『小笠原壱岐守』にも主演。寛プロ時代の代表作との声も高い。 しかし、1937年(昭和12年)8月に寛プロは解散した。剛毅な性格だったアラカンは、この「寛プロ」合流に前後して新興キネマの身売り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の永田雅一が寛寿郎に対して「寛プロ」解散費用を全負担し、「八千円の給料」と言う破格の条件で入社をもちかけたところ、「従業員はほっといてお前だけ来い」との永田の一言に激怒。永田と衝突した結果、アラカンは自社の従業員を新興に送り込んで、自身は半年ほど映画界から追放された。従姉妹の森光子は「おとなしいような顔をして、その実は大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです」と述懐している。 1938年(昭和13年)、日活京都撮影所に入社。ここでも鞍馬天狗とむっつり右門を演じ、ほかにも『出世太閤記』『海援隊』等の佳作に出演した。
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