嵐寛寿郎プロダクションの設立とは? わかりやすく解説

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嵐寛寿郎プロダクションの設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:40 UTC 版)

嵐寛寿郎」の記事における「嵐寛寿郎プロダクションの設立」の解説

1928年昭和3年4月、『新版大岡政談 前編中篇』の2作で丹下左膳演じたのを最後にマキノから独立嵐寛寿郎プロダクション(略称:寛プロ)を設立独立理由には、鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢があった。この独立に際して三郎の名を返上し葉村屋宗家名跡である「璃寛」からとった「嵐寛壽郎」を名乗り以来生涯この名で通す。しかし、設立第5作の『鬼神血煙をもって寛プロ解散した1929年昭和4年2月東亜キネマ京都撮影所スター級幹部俳優として迎えられた。同年、『右門一番手南蛮幽霊』でむっつり右門初め演じ鞍馬天狗と並ぶ当り役となった1931年昭和6年5月寛プロ名義東亜キネマ配給で『都一風流男』を発表同年8月東亜キネマ京都撮影所長の高村正次とともに東亜退社第2次寛プロ設立し7年後解散まで鞍馬天狗むっつり右門銭形平次演じたほか、山中貞雄抜擢して磯の源太 抱寝の長脇差』『小笠原壱岐守』にも主演寛プロ時代代表作との声も高い。 しかし、1937年昭和12年8月寛プロ解散した剛毅性格だったアラカンは、この「寛プロ合流前後して新興キネマ身売り話が持ち上がったことにかこつけて新興側の永田雅一が寛寿郎に対して寛プロ解散費用を全負担し、「八千円の給料と言う破格条件入社もちかけたところ、「従業員ほっといてお前だけ来い」との永田一言激怒永田衝突した結果アラカン自社従業員新興送り込んで自身半年ほど映画界から追放された。従姉妹森光子は「おとなしいような顔をして、その実大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方徹底してるんです」と述懐している。 1938年昭和13年)、日活京都撮影所入社。ここでも鞍馬天狗むっつり右門演じ、ほかにも『出世太閤記』『海援隊』等の佳作出演した

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