祇園芸妓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:59 UTC 版)
京都へ戻った秀は祇園の玉川家へ預けられたが、舞妓としては適応年齢を超過していたことと、祇園の主流であった井上流の舞が修められていなかったことから、芸妓として売り出されることとなった。こうして秀は1938年(昭和13年)、見世出しを迎え、黒紋付の引着を纏い、屋形の玄関へ立った。芸名は「そめ」と名付けられた。 秀はすぐに売れっ子となり、玉川家を筆頭にいくつもの座敷を掛け持ちするようになる。しかし、一人当たりの客に対する時間が相応に短くなってしまったことなどから秀を贔屓にしていた客らにより、「おそめ見る会」が立ち上げられるなど、その人気ぶりは過熱するばかりだった。こうした状況に姉芸妓たちは苛立ちを隠せず、次第に廓でのいじめに発展していく。地方が三味線を引くことをやめたり、客の前でのこれ見よがしに叱責することも一度や二度ではなかったという。 やがて東京に住む能役者、梅若猶義という男に一目惚れをしたことから、秀はしばしば東京へ思いを馳せるようになる。しかし、その思いは成就することなく、1942年(昭和17年)、秀は松竹創業者である白井松次郎・大谷竹次郎の弟(白井信太郎)に落籍される。白井の用意した高瀬川沿いの木屋町通の家へ移り、母よしゑ、妹掬子を招いて暮らすようになった。1945年(昭和20年)、戦争が終結すると、秀は大黒町にあった白井のダンスホールに足しげく通うようになる。秀はここで、俊藤浩滋という男に初めて出会った。ふたりはすぐに恋仲となり、3月も経たぬうちに秀は妊娠してしまう。秀は白井に別れを申し出、木屋町で俊藤と同棲するようになった。
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