祇園祭礼図巻
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上下2巻、全長30m余りもの長さにわたり、上質な紙と絵の具を用いて表面には雲母を撒き、祇園祭の一部始終を描き尽くすそうとする他に類を見ない絵巻物。祇園祭を題材にした作品は、近世だけでも100点弱、祇園会を点景として描く洛中洛外図などを含めれば200点を下らないが、山鉾巡行以外の行事まで描いた作品は少ない上に、絵自体の質や場面の周到さ、考証の緻密さなどで傑出した出来栄えを示す。上巻は稚児社参から宵山、前祭の山鉾23基の巡行を、下巻は後祭の山鉾10基の巡行から、神輿還幸、四条河原の納涼を経て、祇園ねりもので終わる。無款記ではあるものの、制作当初のものと思われる内箱に「京都/祇園会真図/花山筆」とあることや、紅花屏風との細部比較により、華山の筆であることに疑いない。なお、上下巻とも冒頭に無屋道人なる人物の漢詩が記されているが、年期は弘化3年(1846年)で本図とは直接には関係ない。 順に場面を見ていく。稚児社参は神事の無事を祈願するため、稚児が祇園社を詣でること。現在の祭りでは稚児は馬に乗って社参するが、本図では駕籠に乗る。続く宵山では、菊水鉾を中心に3基の鉾を並べることで、そこが「鉾の辻」出ることを暗示する。また、先の祇園社と並置することで、昼と夜、社の厳粛さと街の喧騒という対比を作っている。前祭の山鉾巡行は、本来最後尾の船鉾を先頭に、先頭の長刀鉾を上巻末に表し、最後尾から先頭へ向かって追いかけるように表されており、本作の大きな特徴である。なお途中の月鉾は、山鉾巡行の見どころの一つ、辻回しを行っている。下巻巻頭から始まる後祭の山鉾巡行は、前祭と異なり先頭から表される。山鉾は鉾頭を描いていないものが複数あるものの、精緻に描かれた装飾品などから全て特定でき、鉾の間に山3基の原則が忠実に守られている。むしろ、鉾頭を巧みにトリミングする事で、装飾品や祭りを楽しむ人々を強調し、山鉾がただ並ぶだけの単調な画面に陥るのを避けている。なお山鉾巡行の順番は、籤取らずの山鉾以外クジで決まるため毎年異なるが、本図と同じ順番の年は存在せず、特定の年の巡行を描いたわけではない事がわかる。神輿還幸は御旅所から祇園社への3基の神輿が還幸するさまを、下巻のほぼ半分を占めて描かれる。 最後の2場面は夕闇に変わり、まずは四条河原の川床で夕涼みする人々。鴨川の浅瀬に床几が所狭しと並べられ、寿司や西瓜、甘酒の屋台が軒を連ね、「仮名手本忠臣蔵」の看板も確認できる。「祇園ねりもの」とは、祇園の芸妓たちが仮装して花街を練り歩く行事で、神輿洗に合わせて5月晦日と6月18日(共に旧暦)に行われた。仮装のテーマは毎年異なり、本図では牛若丸に扮した芸妓から天保6年(1835年)、後祭の山鉾巡行の後に描かれていることから、5月晦日ではなく6月18日のねりものだと特定できる。見物客はパンフレットのようなものを持っているが、これは「ねりもの番付」で、芸妓たちが練り歩く順番を記した摺物である。祇園ねりものは芸妓たちの晴れ舞台で、旦那衆たちはは贔屓の芸妓のためにライバルの芸妓に負けまいと豪華な衣装をしつらえ、番付を一つでも上げようと競い合った。しかも、練り歩く道すがら贔屓筋の旦那衆から声がかかると、芸妓はその場で舞や踊りを披露したという。そのたびにねりものは中断するため、終わるのは明け方になることも珍しくなかった。なお、江戸時代までは衣装はその日限りの使い捨てで、裾は地面を引きずっていたという。このように現代では実施が困難な行事ということもあり、昭和35年(1960年)を最後に、祇園ねりものは開催されていない。こうした事情のため祇園ねりものの資料は少なく、歴史資料としても貴重な画証といえる。末尾は高札が立ち並ぶ祇園社西門で終わり、祇園社正門から始まる冒頭との対比となっている。 制作年は、先述の天保6年6月18日から、華山が没する天保8年3月16日までの2年弱まで絞り込め、華山晩年の代表作と言える。ただし、制作期間は短期間ながらも、準備期間には相当な日数を要したと想像される。そもそも各山鉾町の山鉾が、完成された状態で実見する期間は限られている。他流派の絵師ならば、師匠らから受け継いだ粉本や、『祇園会細記』や『都名所図会』といった祇園祭を描いた版本を用いて型通りの作品に仕上げることもできるだろうが、華山の風俗画に対する姿勢からは想定し難い上に、そのような作品で満足するような注文主ならば華山に制作を依頼しないであろう。実際、本作の下絵の一部である「祇園祭鉾調巻(祇園祭礼図巻下絵)」(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)には、懸装品や金工品、御神体などについて、事細かに記されている。内箱の「祇園会真図」という文言は、決して誇張ではないといえよう。本作の依頼主は不明だが、祇園祭を知悉していないと楽しめない表現が多数盛り込まれていることから、山鉾町の上層町衆、または祇園の花街を支える旦那衆、および両者を兼ね備えた人物が想定される。候補としては「紅花屏風」と同じく伊勢屋理右衛門が挙げられるが、確証はない。 なお、「祇園祭礼図巻」の下絵とされる「祇園祭鉾調巻」は、縦約30cm、長さ約9mの作品で、前祭(さきまつり)巡行を描いている。2000年3月に京都市立芸術大学が寄付を受けたが、2022年5月に行方不明になっていることが判明した。
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