紅花屏風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:47 UTC 版)
六曲一双の大画面に、紅花の種まきから収穫・加工・出荷までを、右隻109人、左隻111人、合計220人もの人々の生産現場から、あたかもドキュメンタリーのように描き出されている。花餅の大きさが右隻は大きく、左隻は小さいことから、右隻は武州地方、現在の埼玉県上尾市・桶川市周辺で生産された武州紅花、左隻は南仙地方・金ケ瀬、現在の宮城県大河原町の奥州紅花の様子を描いたとされる。花餅の大きさの違いは、日照時間が長い武州では乾燥が早いため大きく、逆に日照時間が短い奥州では乾燥しやすくするため小さくしていた史実による。 本作は京都の紅花問屋・伊勢屋理(利)右衛門が、祇園祭に伴う屏風祭で飾るために華山に描かせたという。理右衛門はこの屏風のために最良質の紙や岩絵具、金泥を提供し、更に華山に紅花の生産現場を見せるために、武州や奥州への取材旅行に行かせている。華山が初めて取材に赴いたのは文政2年(1819年)、右隻は1823年(文政6年)、左隻1825年(文政8年)であることから、作品の完成までに6年もかけていることがわかり、取材も複数回にわたるようだ。もっとも、京の祭りで見物する人々のために、黄色の段階もある紅花を終始紅色で表す、伊勢屋のために伊勢屋が取り扱う銘柄を実際の産地に関係なく画面に配置するなどの作為も見られる。しかし、紅花を画題にした作品は、他に地元の狩野派絵師・青山永耕筆「紅花屏風」(山寺芭蕉記念館蔵)など僅かしか無く、歴史資料としても貴重。本作は明治初期まで伊勢屋が所蔵していたが、その後伊勢屋と取引のあった山形の紅花商・佐藤利兵衛に譲られ、同じく山形の有力商人長谷川家の手を経て、山形美術館の所蔵となった。山形県指定有形文化財。
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