大阪松竹時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:59 UTC 版)
1933年(昭和8年)、写真化学研究所の森岩雄より当時勃興し担い手が不足していたトーキー脚本を書くことを薦められたが、晩夏に松竹大阪支店から演劇雑誌社各社に人手を求める問い合わせがあり、こちらに向かうこととなった。11月12日東京駅を出発、豊島郡箕面村大字牧落百楽荘住宅地(現・箕面市百楽荘)にある母方の親戚棚沢康哉方に住んだ。大阪歌舞伎座地下室の営業部幕内課に配属された。 初仕事は1934年(昭和9年)1月、都築文男、五月信子が出演する、江戸川乱歩作『陰獣』の脚色であった。この作は不評だったが、専務白井信太郎の新任を得て演劇のほか様々な雑用をこなし、また大阪松竹歌劇団(現・OSK日本歌劇団)で台詞の振付を教えた。後に南区久左衛門町(現・中央区西心斎橋二丁目7番22号)に松竹大阪支社の社屋が完成し、幕内課も移転して企劃課と改名した。 1935年(昭和10年)4月、多忙のため食生活が乱れ、ビタミンB・ビタミンC欠乏により湿疹が出来たため、住吉大社の側に家を借り、東京から女中を呼び寄せ家事を委託した。
※この「大阪松竹時代」の解説は、「岸井良衞」の解説の一部です。
「大阪松竹時代」を含む「岸井良衞」の記事については、「岸井良衞」の概要を参照ください。
- 大阪松竹時代のページへのリンク