大阪東港線の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 15:01 UTC 版)
第二次世界大戦後、大阪港内港化計画が実施されることになり、安治川の南側に岸壁が建設されることになった。この方面への臨港鉄道の必要性が感じられたことから、大阪市側から日本国有鉄道(国鉄)に対して建設の依頼がなされた。この際に、大阪市と国鉄で建設費を分担することになり、下部構造を大阪市が、上部構造を国鉄が負担することとなった。また経路については3案の比較が行われ、浪速駅の南側で分岐して三十間堀川を渡り、天保山運河に沿って北西に進んで、安治川の岸壁に沿って北へ向かう経路となった。1953年(昭和28年)3月に着工され、1956年(昭和31年)3月15日に完成して、大阪東港線と通称された。さらにその後、1957年(昭和32年)7月までかけて側線の延長などが行われた。建設費は約1億2000万円で、大阪市が約6000万円を負担している。また三菱セメントがサイロまでの専用線を敷設した。安治川第2埠頭の完成に伴って、さらに延長が行われ、1965年(昭和40年)3月に完成した。しかし貨物輸送の自動車への転換が進み、当初の期待に反してこの頃から臨港線の利用は減少していくようになった。
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