トーキー時代とは? わかりやすく解説

トーキー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/14 06:15 UTC 版)

福井シネマ」の記事における「トーキー時代」の解説

1931年昭和6年)、前年まで福井劇場担当していた日活映画この年から上映することになり、館名も日活館と改めた市内には前年1930年昭和5年11月新たに松竹座開館し常設館競争激化していた。新興松竹座インテリ階級集めたのに対し日活館には比較低級な階級集まった。 この時期トーキー普及始めた時期で、福井でも1929年昭和4年7月加賀屋座でトーキー興行が行われた。こうした状況背景に、弁士削減を図る館主従業員衝突福井各館見られるようになり、1931年昭和6年10月には日活館でも弁士解雇をめぐる争議起きた争議の中、11月には松竹座では国産初のトーキー作品マダムと女房』が上映され徐々にトーキー転換進んだ1931年昭和6年12月には、激化する競争に耐えかねた常設4館が福井映画組合組織して料金演目調整を図ることになった。この措置一環日活館は大衆館と改称日活映画の上映をやめることになった日活改め大衆館は、1936年昭和11年)に阿部九州男羅門光三郎嵐寛寿郎水島道太郎らの作品ランドルフ・スコット漫画なども加えた9本立て興行行った

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トーキー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:42 UTC 版)

溝口健二」の記事における「トーキー時代」の解説

1929年5月以降日本ではアメリカトーキー公開され、早速国内でもトーキー作られ始めた1930年溝口もミナ・トーキー方式使用して部分的に歌やセリフ付けたパート・トーキー作品藤原義江のふるさと』を撮影したが、雑音多くて技術的に失敗した1932年には自身初のオール・トーキー作品時の氏神』を撮影したが、撮影終了直後4月4日日活退社し白井信太郎誘い新興キネマ移籍した同社最初の仕事は、入江たか子独立プロである入江プロダクション第一回作品満蒙建国黎明』(1932年)で、2か月間に渡り満州各地ロケ撮影をしたが、編集作業が手に負えぬほど無茶苦茶撮ってしまい、途中で編集放棄して雲隠れしたという。その次に再び入江プロ鏡花原作の『瀧の白糸』(1933年)を撮影した。この作品キネマ旬報ベスト・テン2位選ばれサイレント映画時代溝口ピークとなった1934年3月溝口新興キネマ契約切れたことで退社し日活製作部長だった永田雅一要請日活多摩川撮影所入社した同社では山田五十鈴主演の『愛憎峠』を撮ったのみで、8月永田日活退社する溝口行動を共にし、9月永田らと第一映画社創立参加した同社では鏡花原作の『折鶴お千』(1935年)をはじめ、『マリアお雪』『虞美人草』(1935年)などを撮影したが、いずれも低調評価で再びスランプ突入した1936年公開の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』では批評家から高い評価を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは前者3位後者が1位に選ばれスランプ脱することができた。岸松雄はこの2作を「日本映画史上輝かし金字塔打ち立てた作品評し佐藤忠男は「それまでベテランとして尊敬されていた溝口を、さらに巨匠という最高級呼び名呼ばれる存在にした」作品述べている。 1936年3月数十人の日映画代表的監督が、互い親睦を図るとともに日本映画の向上に尽く目的日本映画監督協会結成した溝口もその創立メンバー名を連ねこれを機に小津安二郎清水宏山中貞雄などと親交を結ぶようになった同年9月第一映画社経営難解散し溝口翌月上京して新興キネマ大泉撮影所入社し山路ふみ子主演の『愛怨峡』(1937年)、『露営の歌』『あゝ故郷』(1938年)を撮影したその間1937年6月には、日本映画監督協会初代会長村田実死去し溝口その後任として2代目会長就任した1939年には白井信太郎招かれ松竹京都撮影所で1本撮ることになり、村松梢風原作の『残菊物語』を監督した。この作品キネマ旬報ベスト・テン2位選ばれた。同年秋に清水宏内田吐夢熊谷久虎とともにキネマ旬報創刊20周年記念満州視察団加わり帰国後の12月には内閣映画委員任命された。

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トーキー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:30 UTC 版)

ベッシー・ラヴ」の記事における「トーキー時代」の解説

ラヴトーキーへの移行に無事成功することができた。そして1929年、彼女は『ブロードウェイ・メロディー』で、 アカデミー主演女優賞ノミネートされた。彼女はほかにも、『ハリウッド・レヴィユー』 (1929)、『虹を追って』 (1930), 『有頂天時代』 (1930)、『They Learned About Women』 (1930)など、いくつかの初期ミュージカル映画出演した。 しかし、1932年までに彼女のアメリカ映画への出演減っていった。彼女は1935年イングランド移住し、そこで舞台仕事時折映画出演をした。ヨーロッパで戦争が起こると彼女はしばらくアメリカ帰り赤十字社働いたり、軍隊慰問行ったりした。戦後、彼女はふたたびイギリスへ帰り、そこに居を構えてイギリスアメリカの映画会社で、脇役仕事続けた。『裸足の伯爵夫人』 (1954) で ハンフリー・ボガート共演、またアメリカ人観光客として、ケネス・モア主演の『女になる季節』 (1961) に出演した。彼女はまたアメリカ人観光客の役でジェームズ・ボンドの『女王陛下の007』(1969)に出演したしかしながらその後すぐに彼女のキャリアは停止し、彼女はイギリスへ移り数本映画出演した1980年代になってからカムバックして 『ラグタイム』 (1981)、 ウォーレン・ベイティの『レッズ』 (1981)、そして彼女の最後の出演映画である『ハンガー』(1983) で、主演カトリーヌ・ドヌーヴ, デヴィッド・ボウイスーザン・サランドン共演した。彼女はその生涯131本の映画テレビドラマ主演した

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