トーキー時代
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1931年(昭和6年)、前年まで福井劇場が担当していた日活の映画をこの年から上映することになり、館名も日活館と改めた。市内には前年の1930年(昭和5年)11月に新たに松竹座が開館し、常設館の競争が激化していた。新興の松竹座がインテリ階級を集めたのに対し、日活館には比較的低級な階級が集まった。 この時期はトーキーが普及を始めた時期で、福井でも1929年(昭和4年)7月に加賀屋座でトーキー興行が行われた。こうした状況を背景に、弁士削減を図る館主と従業員の衝突が福井の各館で見られるようになり、1931年(昭和6年)10月には日活館でも弁士の解雇をめぐる争議が起きた。争議の中、11月には松竹座では国産初のトーキー作品『マダムと女房』が上映され、徐々にトーキー転換が進んだ。 1931年(昭和6年)12月には、激化する競争に耐えかねた常設4館が福井映画業組合を組織して料金や演目の調整を図ることになった。この措置の一環で日活館は大衆館と改称、日活映画の上映をやめることになった。日活館改め大衆館は、1936年(昭和11年)に阿部九州男、羅門光三郎、嵐寛寿郎、水島道太郎らの作品にランドルフ・スコットや漫画なども加えた9本立てで興行を行った。
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トーキー時代
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1929年5月以降、日本ではアメリカのトーキーが公開され、早速国内でもトーキーが作られ始めた。1930年に溝口もミナ・トーキー方式を使用して、部分的に歌やセリフを付けたパート・トーキー作品『藤原義江のふるさと』を撮影したが、雑音が多くて技術的には失敗した。1932年には自身初のオール・トーキー作品『時の氏神』を撮影したが、撮影終了直後の4月4日に日活を退社し、白井信太郎の誘いで新興キネマに移籍した。同社で最初の仕事は、入江たか子の独立プロである入江プロダクションの第一回作品『満蒙建国の黎明』(1932年)で、2か月間に渡り満州各地でロケ撮影をしたが、編集作業が手に負えぬほど無茶苦茶に撮ってしまい、途中で編集を放棄して雲隠れしたという。その次に再び入江プロで鏡花原作の『瀧の白糸』(1933年)を撮影した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれ、サイレント映画時代の溝口のピークとなった。 1934年3月、溝口は新興キネマと契約が切れたことで退社し、日活の製作部長だった永田雅一の要請で日活多摩川撮影所に入社した。同社では山田五十鈴主演の『愛憎峠』を撮ったのみで、8月に永田が日活を退社すると溝口も行動を共にし、9月に永田らと第一映画社の創立に参加した。同社では鏡花原作の『折鶴お千』(1935年)をはじめ、『マリアのお雪』『虞美人草』(1935年)などを撮影したが、いずれも低調な評価で再びスランプに突入した。1936年公開の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』では批評家から高い評価を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは前者が3位、後者が1位に選ばれ、スランプを脱することができた。岸松雄はこの2作を「日本映画史上に輝かしい金字塔を打ち立てた」作品と評し、佐藤忠男は「それまでもベテランとして尊敬されていた溝口を、さらに巨匠という最高級の呼び名で呼ばれる存在にした」作品と述べている。 1936年3月、数十人の日本映画の代表的監督が、互いの親睦を図るとともに、日本映画の向上に尽くす目的で日本映画監督協会を結成した。溝口もその創立メンバーに名を連ね、これを機に小津安二郎、清水宏、山中貞雄などと親交を結ぶようになった。同年9月、第一映画社が経営難で解散し、溝口は翌月に上京して新興キネマ大泉撮影所に入社し、山路ふみ子主演の『愛怨峡』(1937年)、『露営の歌』『あゝ故郷』(1938年)を撮影した。その間の1937年6月には、日本映画監督協会初代会長の村田実が死去し、溝口はその後任として2代目会長に就任した。1939年には白井信太郎に招かれて松竹京都撮影所で1本撮ることになり、村松梢風原作の『残菊物語』を監督した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれた。同年秋には清水宏、内田吐夢、熊谷久虎らとともにキネマ旬報創刊20周年記念の満州視察団に加わり、帰国後の12月には内閣の映画委員に任命された。
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トーキー時代
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ラヴはトーキーへの移行に無事成功することができた。そして1929年、彼女は『ブロードウェイ・メロディー』で、 アカデミー主演女優賞にノミネートされた。彼女はほかにも、『ハリウッド・レヴィユー』 (1929)、『虹を追って』 (1930), 『有頂天時代』 (1930)、『They Learned About Women』 (1930)など、いくつかの初期のミュージカル映画に出演した。 しかし、1932年までに彼女のアメリカ映画への出演は減っていった。彼女は1935年にイングランドに移住し、そこで舞台の仕事と時折映画出演をした。ヨーロッパで戦争が起こると彼女はしばらくアメリカに帰り、赤十字社で働いたり、軍隊で慰問を行ったりした。戦後、彼女はふたたびイギリスへ帰り、そこに居を構えて、イギリスとアメリカの映画会社で、脇役の仕事を続けた。『裸足の伯爵夫人』 (1954) で ハンフリー・ボガートと共演、またアメリカ人観光客として、ケネス・モア主演の『女になる季節』 (1961) に出演した。彼女はまたアメリカ人観光客の役でジェームズ・ボンドの『女王陛下の007』(1969)に出演した。 しかしながら、その後すぐに彼女のキャリアは停止し、彼女はイギリスへ移り数本の映画に出演した。1980年代になってからカムバックして 『ラグタイム』 (1981)、 ウォーレン・ベイティの『レッズ』 (1981)、そして彼女の最後の出演映画である『ハンガー』(1983) で、主演のカトリーヌ・ドヌーヴ, デヴィッド・ボウイ、スーザン・サランドンと共演した。彼女はその生涯で131本の映画とテレビドラマに主演した。
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