トーキー映画の登場と凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:59 UTC 版)
「ダーダーサーハバ・パールケー」の記事における「トーキー映画の登場と凋落」の解説
パールケーは新会社「パールケー・ダイアモンド・カンパニー」の設立を決意し、ヒンドゥスタン・シネマ・フィルムズ・カンパニー時代の経営パートナーであるマヤシャンカル・バットに接触した。マヤシャンカルは製作費として5万ルピーの提供に同意したが、「予算内で映画を完成させる」という条件を提示した。パールケーは条件を受け入れ、『Setubandhan』の製作を開始し、ハンピ、マドラス、ラトナギリ(英語版)でロケーション撮影を行った。しかし、完成前に予算が底をつき、マヤシャンカルからは追加の製作費の提供を拒否されてしまう。パールケーは製作費を確保するため資本家たちと接触するため、1年間撮影を休止した。 ヒンドゥスタン・シネマ・フィルムズ・カンパニーのワーマン・シュリーダール・アープテーは『Setubandhan』の撮影セットを見学してパールケーへの支援を約束し、同時に両社の合併を提案した。パールケーはヒンドゥスタン・シネマ・フィルムズ・カンパニーに戻り、同社の元でボンベイのインペリアル・フィルム・スタジオで撮影を再開し、『Setubandhan』は製作開始から2年かけて完成された。ヒンドゥスタン・シネマ・フィルムズ・カンパニーは設立から15年が経ったため、アープテーは契約満了を理由に解散を決定した。同作が完成した時点で映画界にはトーキー映画が登場しており、1931年3月14日にインド初のトーキー映画『Alam Ara』が公開されていた。サイレント映画として製作された『Setubandhan』は上映館の確保に難航したが、1932年に公開が実現した。『Alam Ara』の監督アルデシール・イラニ(英語版)は『Setubandhan』に音声を付けるようにパールケーに提案し、提案を聞き入れたパールケーはイラニのスタジオで4万ルピーかけてヒンディー語の台詞を吹き替えた。同作は1934年に再上映されたものの、興行的には成功しなかった。
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