トーキー以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:56 UTC 版)
映像と同時に音を録音するというアイデアは、映画そのものと同じくらい古くからある。1888年2月27日、先駆的写真家エドワード・マイブリッジはトーマス・エジソンの研究所にほど近い場所で講演を行い、この2人の発明家は個人的に会った。マイブリッジは商業映画が誕生する6年前のこのときに、彼の発明したズープラクシスコープの動画とエジソンの蓄音機の技術を組合せ、発声映画を作ることを提案したと後に主張している。合意に達することはなかったが、その1年以内にエジソンは覗き込む方式のキネトスコープを開発し、これに円筒型蓄音機の音楽を組み合わせた興行を行った。この2つを組み合わせたキネトフォンが1895年に作られたが、フィルム映写方式が成功したことで覗き見方式はすぐに廃れることになった。1899年、スイス生まれの発明家フランソワ・デュソーの発明に基づく映写式発声映画システム「キネマクロノグラフ」または「フォノラマ」がパリで公開された。これはキネトフォンと同様、観客がイヤホンをつける必要があった。フランスの Clément-Maurice Gratioulet と Henri Lioret は発声映画システム Phono-Cinéma-Théâtre を開発し、1900年のパリ万国博覧会で演劇、オペラ、バレエなどを扱った短編映画を上映した。フィルムを映写し、音をスピーカーで鳴らすという形の世界初の上映とされている。パリ万博では他に前述のフォノラマやテアトロスコープというシステムも公開された。 映像と音声を別々に記録・再生する方式には、3つの大きな問題があった。最大の問題は同期である。別々に記録してあるため、完全に同時にスタートさせ、常に同期をとるのは非常に難しい。また十分な音量で再生することも難しかった。映像の方はすぐに大きなスクリーンに映写できるようになったが、真空管による電気的増幅が可能になるまで、観客席全体に響くような大音量を出すことはできなかった。最後の問題は録音の音質である。当時の録音システムでは、演奏者が面倒な録音装置の目の前で演奏しない限り、極めて聞き取りにくい音声しか録音できなかった。そのため、撮影と同時に録音する場合、映画の題材が限られることになった。 様々な方式で同期問題の根本的対処が試みられた。多くのシステムが蓄音機とレコードを利用しており、これをサウンド・オン・ディスク技術と呼ぶ。円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで「ベルリナー盤」と呼ばれた。1902年、レオン・ゴーモンが独自のサウンド・オン・ディスク方式Chronophoneを公開した。これには映写機と蓄音機を電気的に接続する特許が使われていた。4年後、ゴーモンはイギリスの発明家 Horace Short と Charles Parsons の開発した Auxetophone に基づいた圧縮空気による増幅システム Elgéphone を開発した。期待を集めたものの、ゴーモンの技術革新は商業的にはあまり成功しなかった。発声映画の3つの問題を完全に解決したわけではなく、その上高価だった。そのころ、ゴーモンのライバルとしてアメリカの発明家E・E・ノートンのCameraphoneがあった(円筒式なのか円盤式なのか資料によってまちまちである)。こちらもChronophoneと似たような理由で成功には至らなかった。 1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した(音源は円筒式レコード)。蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した。1910年代中ごろには、発声映画の商業化の熱が一時的に低下した。エホバの証人は人類の起源についての自説を広めるため、1914年からアメリカ合衆国各地を巡回して The Photo-Drama of Creation を上映した。これは8時間もの超大作で、別に録音された説教と音楽を蓄音機で同時に再生していた。 そのころ、技術革新は重要な局面を迎えていた。1907年、フランス生まれでロンドンで活動していたユージン・ロースト(1886年から1892年までエジソンの下で働いていた)がサウンド・オン・フィルム技術の世界初の特許を取得した。これは、音声を光の波に変換し、セルロイド上に焼き付けるというものである。歴史家 Scott Eyman は次のように解説している。 それは二重のシステムであり、音と映像は別々のフィルム上にあった。(中略)基本的に音をマイクロフォンでとらえて電球を使って光の波に変換し、狭いスリットのある薄く敏感な金属リボンに照射する。このリボンのスリットを通過した光をフィルムに焼き付けると、幅が0.1インチ前後の震えるように変化する光の帯となる。 サウンド・オン・フィルム方式は発声映画の標準となったが、ロースト自身は自分の発明をうまく活用できなかった。1914年、フィンランドの発明家 Eric Tigerstedt は独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許をドイツで取得し(#309,536)、同年ベルリンの科学者らの前で試験上映を行った。ハンガリーの技術者 Denes Mihaly も1918年に独自のサウンド・オン・フィルム方式の特許を出願している。こちらの特許が成立したのは4年後である。しかし、これらのシステムは音をどこにどう記録するかという部分では様々だが、いずれも商業的に成功するには至っていない。ハリウッドの大手スタジオも発声映画ではほとんど利益を上げられなかった。
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