キネトフォン
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キネトフォン(英: Kinetophone)は、エジソンとディクソンが映像と音を同期するトーキーを実現するために、キネトスコープとフォノグラフを組み合わせた装置である。この試みはエジソンが映画の実験を始めた当初からの夢の一つだった。キネトフォンの実験用に作られた最初の作品が『The Dickson Experimental Sound Film』で、1894年後半または1895年初頭にブラック・マリアで撮影された。その映像にはディクソンがカメラ外の蝋管につながる録音用ホーンに向けてヴァイオリンを弾いている姿が記録されており、撮影中に音楽が同時録音されている。1895年3月にエジソン社はキネトフォンを発売し、4月に最初のデモンストレーションが行われた。キネトフォンはそれ自体に技術革新を伴うものではなく、キネトスコープの木箱内にフォノグラフを備え付けただけの装置だった。しかし、映像と音の同期は不正確で、ダンスや吹奏楽団などの映像を見ながら、それに付けられた伴奏音楽を聴くという緩やかな同期にとどまった。キネトフォン用作品のほとんどはサイレント映画で、その映像に合う音楽の蝋管が購入者に提供された。 1913年1月、エジソンは映写式に改良したキネトフォンを発表した。1895年のシステムと同様に蝋管式蓄音機を使用し、それを複雑な滑車とベルトを介して映写式キネトスコープに接続することで、録音した音と同期させた映像をスクリーンに映写した。キネトフォンは当初は成功を収めたが、当時の他のサウンドシステムと同様に映像と音の同期はまだ不完全で、適切な訓練が不十分な映写技師は音声との同期を保つのに苦労し、理想的な条件下で上映が行われることは滅多になかった。上映作品も平凡なヴォードヴィルの出し物を写した6分ほどの短い内容だったため、最初は目新しさで劇場に詰めかけた観客にも次第に飽きられてしまった。エジソン社はキネトフォンの権利を海外の業者に売りつけたが、わずか1年ほどで姿を消した。 日本では、1896年末に神戸居留地のブルウル兄弟商会がキネトフォンを輸入したが、それがどのように使用されたかは不明である。1913年12月、肥塚竜は映写式のキネトフォンの権利を購入し、日本キネトフォン株式会社を設立した。同社はエジソン研究所にいた岡部芳郎を技術者に迎え、日本で発声映画の興行を始めた。披露興行は12月6日と7日に帝国劇場で行われ、1914年4月には浅草公園にキネトフォンの常設興行館・日本座が開館した。6月には同社の撮影場が完成し、長唄や浄瑠璃などを題材にした日本製キネトフォン映画を製作した。日本でもキネトフォンは一時的な好況を見せ、8月1日に日本座で公開した松井須磨子出演の『カチューシャの唄』は高い成功を収めた。これは芸術座の翻訳劇『復活』の挿入歌として松井が歌い、全国的に流行した「カチューシャの唄」をキネトフォンに取り入れた作品である。やがてキネトフォンは技術的制約や人気の下火で興行に向かなくなり、1917年春に日本キネトフォンは倒産した。
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