キネトスコープ映画
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「キネトスコープ」の記事における「キネトスコープ映画」の解説
1894年の夏から秋にかけて、エジソン社は需要が増えたキネトスコープの上映用作品を撮影するため、ブラック・マリアに多くの有名な芸人やダンサーを招いた。映画史家のジョルジュ・サドゥール(フランス語版)によると、エジソンは蓄音機の蝋管を売り出した時に、有力芸人が出演した録音ほど売れたことから、キネトスコープ映画にも芸人たちを起用したという。岩本憲児によると、キネトスコープ映画の題材は観客の強い関心や好奇心を引き付けるものでなければならないため、アクロバットやダンスなどの訓練された身体技術を見世物とする芸人や達人たちが撮影されたという。しかし、キネトグラフは大型で重量があり、持ち運びに不便なためブラック・マリアの中に固定され、屋外で撮影されることはほとんどなかった。また、太陽光を取り入れる必要があるため、黒い背景の前で撮影されることが多かった。 この時期にエジソン社が撮影したものに、ジュアン・カイセドの綱渡り、ルイス・マルティネッティのつり輪、バーナム・アンド・ベイリー・サーカスの異国のダンス、グレンロイ兄弟のバーレスク、黒人のケークウォークなどがある。その中には日本の芸妓の手踊りを撮影した作品も存在する。バッファロー・ビルのワイルド・ウエスト・ショー(英語版)の座員も出演しており、アニー・オークレイの射撃、スー族インディアンのゴースト・ダンスなどが撮影された。アナベル・ムーアが蛇や蝶のダンスをする映画は特に人気があり、1897年までに彼女のダンス映画が何度も撮影された。こうした芸やダンスを撮影した作品だけでなく、酒場や火事現場などの風景を再現した作品、ブロードウェイのミュージカル『Milk White Flag』のハイライトを撮影した作品、『Robetta and Doretto, [no. 2]』のようなコミカルなシチュエーションを持つ作品も存在する。
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