キネトスコープとファントスコープ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 02:17 UTC 版)
「ヴァイタスコープ」の記事における「キネトスコープとファントスコープ」の解説
ヴァイタスコープを商品化するエジソン社(英語版)は、1890年代前半にトーマス・エジソンの助手ウィリアム・K・L・ディクソンが中心となり開発した「キネトスコープ」の商品化で映画事業を始めた。キネトスコープはスクリーンに映写する方式ではなく、覗き穴式による映画鑑賞装置であり、1台につき1人しか見ることができなかった。エジソン社は販売代理人であるノーマン・ラフとフランク・ガモンを通じてキネトスコープを販売し、1894年4月にニューヨークでキネトスコープ・パーラーの1号店を開いて一般興行を始めた。やがてニューヨーク以外のアメリカの都市をはじめ、ロンドンやパリにもキネトスコープ・パーラーが開店し、エジソン社は大きな利益を獲得した。しかし、翌1895年3月には早くも需要が落ち込み、キネトスコープの人気は衰退していった。苦境に立たされたラフとガモンは、エジソンに映写機を開発するよう求めたが、エジソンの研究所はこれを進展させることができなかった。 1895年を通して、欧米では多くの発明家により映写機の開発が進められていた。例えば、ディクソンとレイサム兄弟はパントプティコン(英語版)、ドイツのスクラダノフスキー兄弟(ドイツ語版)はビオスコープ、フランスのリュミエール兄弟はシネマトグラフ、イギリスのロバート・W・ポールはシアトログラフ(英語版)を開発した。ヴァイタスコープの前身であるファントスコープ(英語版)も、この時期に開発された映写機のひとつである。ワシントンD.C.の発明家チャールズ・フランシス・ジェンキンス(英語版)は、1890年代初めから動く映像装置の研究に取り組んでいたが、1895年3月にトーマス・アーマット(英語版)と提携を結び、2人で間欠機構を備えた映写機を開発し、「ファントスコープ」と名付けた。2人は8月28日にその特許を申請し、9月にはアトランタで開かれた綿の市で商業公開した。しかし、ファントスコープの上映興行は失敗に終わり、ジェンキンスとアーマットは関係を解消した。
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