キネトスコープの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 22:02 UTC 版)
「キネトスコープ」の記事における「キネトスコープの衰退」の解説
1895年の初め、キネトスコープとフィルムの売上げが落ち込み、エジソン社の映画事業は厳しくなり始めた。新作映画は独創性を欠き、後述するキネトフォンの試みも失敗した。そうした時に多くの関係者は、フィルム映写がエジソンの追求すべき次のステップであると考えていた。キネトスコープ社を経営するラフとガモンも、エジソンに映写機を作るように催促した。しかし、エジソンはラフとガモンの要求に対して次のように答えた。 もし映写機を作るとすれば、私たちはすべてを台無しにしてしまうだろう。私たちは現に覗き眼鏡式の器械を作り、大量に販売して満足すべき利益を得ている。もし、映写機を私たちが売り出したとしても、おそらく合衆国で10台そこそこが売れればいいところだ。国中で私たちの映像を見せるのに数台もあれば十分だ。だから、諸君は金の卵を生む鶏を殺してしまうことになる。 エジソンは経済的な理由でキネトスコープに固執したが、ディクソンは意見を異にし、フィルム映写の可能性を確信していた。ディクソンはエジソン社総支配人のウィリアム・ギルモアと不和を募らせていたこともあり、同じく映写機を求めるレイサム兄弟に密かに技術を提供していた。結局、同年4月にディクソンはエジソン社を退社した。その後はハイスが新作映画を作っていたが、8月にラフとガモンは従業員のアルフレッド・クラーク(英語版)にフィルムの販売を刺激する映画を作るように指示し、クラークは『メアリー女王の処刑』など数本の歴史的題材の作品を手がけた。それでも売上げは落ち続け、やがてクラークは映画製作から手を引いた。秋までにキネトスコープの人気は衰退し、映画製作もしばらく中止することになった。キネトスコープの商品化2年目で、売上高は前年と比べて95%も減少し、わずか4000ドルとなった。
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