トーキーへの移行
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1934年10月、山中は鳴滝組の三村と萩原の3人で、伊豆へ温泉旅行をしながら『雁太郎街道』のシナリオを執筆し、梶原金八原作(この作品だけ名義は梶原金六となっている)による鳴滝組作品とした。『雁太郎街道』は親分を振って逃げた茶屋の酌婦と、懸賞金目当てに酌婦を捕まえた流れ者が繰り広げる恋愛道中記である。この作品は3度目の千恵プロの監督作品で、10月から11月にかけて撮影を行った。山中にとって初めてのトーキー作品となり、千恵プロ技師の塚越成治が作った「塚越式トーキー」を用いたが音声技術は不十分で、俳優の発声や音と動作の一致もうまくいかなかった。それでも作品は好評を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは10位に選ばれた。これ以後の山中の監督作品はすべてトーキーで作られ、シナリオは三村とのコンビが中心となった。 同年12月には三村と銀閣寺近くの宿屋で、大河内主演の『国定忠次』(1935年)のシナリオを執筆し、12月後半から翌1935年1月にかけて日活太秦撮影所で撮影した。『国定忠次』は信州の旅籠を舞台にして、関所を破って逃げ込んだ国定忠次とさまざまな事情を持つ泊り客たちの人生模様を描いた作品である。この作品は日活が導入していたウエスタン・エレクトリックのトーキー方式を使用しており、『雁太郎街道』の時よりも録音技術の質が大幅に向上した。批評家からは、唄や音の効果的な使用や会話が自然であることなど、前作で見られなかったトーキーの表現技法が成功していると高く評価された。岸松雄は「山中貞雄は『国定忠次』によってトーキー作家としての真価を明らかにした。これは日本トーキーの一つの勝利である」と評し、飯田心美は「1935年現在までに於ける日本トーキー傑作の一つ」と呼んだ。また、キネマ旬報ベスト・テンでは5位に選出された。 1935年2月、山中は鳴滝組メンバーの藤井と稲垣、それに井上、秋山、荒井の6人で福井県の芦原温泉へ旅行し、そこで3本のシナリオの執筆に関与した。旅行から戻ると、日活での次回監督作『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)のシナリオを三村と完成させ、4月から6月まで撮影した。この作品は林不忘原作、伊藤大輔監督と大河内主演の『丹下左膳 第一篇』(1933年)と『丹下左膳 第二篇 剣戟の巻』(1934年)に続く完結篇として企画されたものだったが、伊藤の日活退社で山中が後を引き継ぐことになった。丹下左膳は大河内の当たり役で、伊藤作品では悲愴感のある英雄として描かれたが、山中はそれとは全く異なる人情味のある庶民的なキャラクターに変え、コメディ仕立てに描いた。そのため林不忘側から原作と内容が大幅に異なると抗議され、止むを得ずタイトルに「余話」を付け、本筋とは違う作品ということにして公開された。 同年6月末、山中は稲垣と『関の弥太ッぺ』(1935年)を共同監督した。作品は日活のお盆興行用の目玉商品として7月上旬の完成を目指したが、大雨で撮影所が浸水して使用できなくなり、それで完成が間に合わなくなったこともあり、わずか12日間で作品を撮り上げ、予定の封切り日に間に合わせた。この前後には自分の仕事をこなしながら、梶原金八で滝沢監督の『太閤記 藤吉郎走卒の巻』(1935年)、荒井監督の『突っかけ侍』(1935年)のシナリオを共同執筆した。『関の弥太ッぺ』公開後の夏には、滝沢、八尋、井上、秋山、並木とともに長い旅に出た。一行は飛騨高山から焼岳を越えて上高地へ出、それから箱根、熱海、東京、鬼怒川温泉などへ足を延ばした。旅の途中には小津や清水も合流し、みんなで大いに飲み騒ぎ、夜を徹して映画を語り合った。この旅行には三村と稲垣も加わり、梶原金八で井上監督の『蹴手繰り音頭』前後篇(1935年)のシナリオを共同執筆した。
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