鳴滝組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 09:27 UTC 版)
1934年(昭和9年)、京都の鳴滝に映画監督の滝沢英輔、稲垣浩、鈴木桃作、脚本の三村伸太郎、八尋不二、藤井滋司ら有志が集まり、さらに山中貞雄、萩原遼らが加わって合計8人が集まり共同ペンネーム「梶原金八」の名前でシナリオを作り、そして製作された時代劇映画には現代語を採り入れて新風を巻き起こし、一大勢力となった。このグループを鳴滝組と呼ばれて、片岡千恵蔵の千恵蔵プロの流れを受けて、ユーモアのある明るい時代劇を製作していった。この鳴滝組が製作した映画の代表作が山中貞雄監督、大河内傅次郎主演の『丹下左膳余話 百万両の壺』である。これらの時代劇はその明るさとセリフの分かりやすさ、そのテンポの良さで「髷(マゲ)をつけた現代劇」と言われた。そしてこの頃が戦前における時代劇の頂点であった。 また山中貞雄はその後応召して戦病死したため、わずか5年間の活動で全26本の作品であったが、『丹下左膳余話 百万両の壺』の他に『河内山宗俊』『人情紙風船』のたった3本のフィルムしか現存していない。しかし現在でも山中作品は高い評価を受けている。 1930年代半ばからは、トーキーが導入され、時代劇にも、映画館ごとの活動弁士と生演奏ではない、俳優のセリフと音楽がもたらされ、当時唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉が現れ、そこで製作された映画が大曾根辰夫監督『大江戸出世小唄』で、これが最初の時代劇ミュージカルであり、その後マキノ正博監督の『鴛鴦歌合戦』が製作された。
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