スタッフ及び俳優
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設立した1927年(昭和2年)12月当時の河合映画の陣容は、全体で324人で、そのうち監督6名、カメラマン6名、男優170名、女優65名で、その当時は日活・松竹・帝国キネマ・東亜キネマ・マキノプロに次ぐ準大手であった。この年に松竹が時代劇の不振から時代劇部を廃止したので、河合徳三郎は監督の丘虹二、俳優の吾妻三郎をスカウトし、また翌年1928年(昭和3年)にマキノプロから鈴木桃作、曽根純三・中島宝三などの監督、杉狂児・鈴木澄子・大岡怪童・永井柳太郎らの俳優陣、そして脚本の八尋不二が移籍している。その後に同じ脚本の三村伸太郎が入社して2人は河合映画で2年間製作に携わった。その後は河合映画を退社して別の会社に入っているが、この三村伸太郎と八尋不二、及び鈴木桃作はこの後に脚本家集団鳴滝組に加わっている。 さらに帝国キネマにいた亀井清一・松本英一監督、右太衛門プロから古海卓二監督、その他に悪麗之助監督も河合映画に移っている。 そして同じ1928年(昭和3年)に後に大都の生粋っ子と言われた女優の琴糸路が入社し、彼女は河合及び大都映画を代表する女優として通算285本の同社作品に出演して、戦後まで活躍した。
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