梶原金八を引き抜けとは? わかりやすく解説

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梶原金八を引き抜け

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 11:51 UTC 版)

梶原金八」の記事における「梶原金八を引き抜け」の解説

1935年昭和10年)からの「鳴滝組」の脚本あるいは原作作品は、「梶原金八」とクレジットされるように固定された。滝沢市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で「鳴滝組オリジナル作品晴れ木曾路』を撮り稲垣山中千恵プロから日活京都移籍し稲垣梶原金八脚本富士白雪』、ついで稲垣山中共同監督し長谷川伸原作梶原金八潤色三村脚本作品関の弥太ッぺ』を撮り大ヒットとなったあたりから、忽然と現れた謎の新進脚本家梶原金八」が業界内でクローズアップされはじめる。 時代サイレント映画からトーキーへの移行であった。「鳴滝組」の面々同世代マキノ正博は、機材開発してマキノトーキー製作所設立低予算トーキー躍起になってつくっていた時期である。痛快に面白トーキー書け脚本家梶原金八」は注目集めた成瀬巳喜男追い出したばかりの松竹蒲田撮影所所長城戸四郎は「梶原金八を引き抜け!」と躍起になったが、まさか架空名義とは知らず、またそのメンバーのひとりの藤井松竹下加茂人間であるとは知る由もなかった。 この活動期に高村正次宝塚キネマ葉山純之輔葉山映画連盟崩壊ののち浪人だった三村日活京都撮影所入社マキノ・プロダクション解散以降各社転々としていた滝沢はさらに右太プロ新興キネマ経て1937年昭和12年)になると、各社めまぐるしく動いた山中と同じP.C.L.映画製作所落ち着き東京青山山中同居した。鈴木は「土肥正幹」と改名し萩原監督昇進J.O.スタヂオ移籍した山中滝沢東京離れ、また同年8月25日赤紙が来た山中戦地に赴き、さらには1938年昭和13年9月17日戦死したことにより、「鳴滝組」と「梶原金八」の3年歴史幕を閉じた萩原山中の死の翌年、自らの8本目監督作その前夜』に、山中の名と「梶原金八」の名を刻んだ。「梶原金八」は22本の作品残した

※この「梶原金八を引き抜け」の解説は、「梶原金八」の解説の一部です。
「梶原金八を引き抜け」を含む「梶原金八」の記事については、「梶原金八」の概要を参照ください。

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