鳴滝組の結成
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詳細は「梶原金八」を参照 1934年3月から4月にかけての頃、山中は京都市右京区鳴滝へ転居した。当時の鳴滝には、監督の稲垣浩、滝沢英輔、鈴木桃作、脚本家の八尋不二、三村伸太郎、旧知の藤井滋司が住んでおり、山中は彼らと交友を深めるうちにその人柄と鳴滝の空気の良さを気に入り、移住することを決めたという。山中が鳴滝に移住してからは、彼らとの交流がますます深まり、よくみんなで集まっては飲みながら映画の話をした。そのうち山中たちは、日活を辞めて失業状態となっていた滝沢に仕事のチャンスを与えるために、『右門捕物帖 二百十日』(1934年)のシナリオを共同執筆した。この時の執筆者は山中、稲垣、八尋、滝沢の4人で、「梶原金四郎」という共同ペンネームを名乗った。これをきっかけにして山中たち鳴滝在住の映画人は「鳴滝組」というシナリオ執筆集団を結成し、みんなで集まって時代劇映画のシナリオを書くようになった。 同年7月には再び山中、稲垣、八尋、滝沢の4人で、鳴滝組の2作目となる小石栄一監督の『勝鬨』(1934年)のシナリオを共同執筆した。この作品から鳴滝組は「梶原金八」という共同ペンネームを名乗り、初期メンバーの山中、稲垣、滝沢、八尋に、三村、鈴木、藤井、そして山中を慕って鳴滝に移住した後輩の萩原遼を加えた8人のメンバーで、1937年までに鳴滝組同人や友人たちが監督した20本近くの時代劇映画のシナリオを共同執筆した。梶原金八はいつも8人が全員集まって執筆したわけではなく、その都度手の空いている人たちだけが集まり、旅館に籠もったり旅行を楽しんだりしながら、旅先でみんなでアイデアを出し合ってシナリオを執筆した。シナリオの執筆や構成は常に山中が中心におり、山中が執筆に関与していない梶原金八作品はたった2本しかなかった。そのため八尋は「鳴滝組、梶原金八は山中を軸として回転していたと言っていい」と述べており、稲垣も「梶原金八のカラーは山中に拠って作り上げられた」と述べている。 鳴滝組を結成した頃の山中個人の活動は、まず4月に新人監督の尾崎純のために『ヘリ下りの利七』(1934年)のシナリオを執筆し、その次に再び千恵プロへ出向し、6月に自身初のサウンド版作品となる伊勢野重任原作の『足軽出世譚』(1934年)を撮影した。8月には日活時代劇の秋季大作を予定した『荒木又右衛門』のシナリオを執筆し、自身初の初のトーキー作品として監督するはずだったが、日活社長の中谷貞頼に尺数と撮影日数を制限するように命じられ、それが原因で製作部長兼脚本部長の永田雅一が中谷と衝突して辞任するという騒動が起き、その影響で製作延期となった。この頃に撮影中だった鳴滝組2作目の『勝鬨』も分裂騒動の余波で撮影が遅れ、さらに監督の小石が3分の1のシーンを撮り残したところで演習召集を受けたため、鳴滝組のメンバーと相談の末、山中が応援監督として残りのシーンを撮影した。9月には荒井監督、大河内主演の『水戸黄門 来国次の巻』(1934年)のシナリオを執筆した。荒井監督の『水戸黄門』は『来国次の巻』と『密書の巻』『血刃の巻』(1935年)の3部構成になるが、山中はそのすべてのシナリオを執筆している。
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