鳴滝組の結成とは? わかりやすく解説

鳴滝組の結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:05 UTC 版)

山中貞雄」の記事における「鳴滝組の結成」の解説

詳細は「梶原金八」を参照 1934年3月から4月にかけての頃、山中京都市右京区鳴滝転居した。当時鳴滝には、監督稲垣浩滝沢英輔鈴木桃作脚本家八尋不二三村伸太郎旧知藤井滋司住んでおり、山中は彼らと交友深めるうちにその人柄と鳴滝空気良さ気に入り移住することを決めたという。山中鳴滝移住してからは、彼らとの交流がますます深まり、よくみんなで集まって飲みながら映画の話をした。そのうち山中たちは、日活辞めて失業態となっていた滝沢仕事チャンス与えるために、『右門捕物帖 二百十日』(1934年)のシナリオ共同執筆した。この時の執筆者山中稲垣八尋滝沢の4人で、「梶原金四郎」という共同ペンネーム名乗った。これをきっかけにして山中たち鳴滝在住映画人は「鳴滝組」というシナリオ執筆集団結成しみんなで集まって時代劇映画シナリオを書くようになった同年7月には再び山中稲垣八尋滝沢の4人で、鳴滝組2作目となる小石栄一監督の『勝鬨』(1934年)のシナリオ共同執筆した。この作品から鳴滝組は「梶原金八」という共同ペンネーム名乗り初期メンバー山中稲垣滝沢八尋に、三村鈴木藤井、そして山中慕って鳴滝移住した後輩萩原遼加えた8人のメンバーで、1937年までに鳴滝組同人友人たち監督した20近く時代劇映画シナリオ共同執筆した。梶原金八はいつも8人が全員集まって執筆したわけではなくその都度手の空いている人たちだけが集まり旅館に籠もったり旅行楽しんだしながら旅先みんなでアイデア出し合ってシナリオ執筆したシナリオ執筆構成は常に山中中心におり、山中執筆関与していない梶原金八作品はたった2本しかなかった。そのため八尋は「鳴滝組梶原金八山中を軸として回転していたと言っていい」と述べており、稲垣も「梶原金八カラー山中拠って作り上げられた」と述べている。 鳴滝組結成した頃の山中個人の活動は、まず4月新人監督尾崎純のために『ヘリ下りの利七』(1934年)のシナリオ執筆し、その次に再び千恵プロへ出向し6月自身初のサウンド版作品となる伊勢野重任原作の『足軽出世譚』(1934年)を撮影した8月には日活時代劇の秋季大作予定した荒木又右衛門』のシナリオ執筆し自身初の初のトーキー作品として監督するはずだったが、日活社長中谷貞頼に尺数と撮影日数制限するように命じられ、それが原因製作部長兼脚本部長永田雅一中谷衝突して辞任するという騒動起きその影響で製作延期となったこの頃撮影中だった鳴滝組2作目の『勝鬨』も分裂騒動余波撮影が遅れ、さらに監督小石3分の1シーン撮り残したところで演習召集受けたため、鳴滝組メンバー相談の末、山中応援監督として残りシーン撮影した9月には荒井監督大河内主演の『水戸黄門 来国次の巻』(1934年)のシナリオ執筆した荒井監督『水戸黄門』は『来国次の巻』と『密書の巻』『血刃の巻』(1935年)の3部構成になるが、山中はそのすべてのシナリオ執筆している。

※この「鳴滝組の結成」の解説は、「山中貞雄」の解説の一部です。
「鳴滝組の結成」を含む「山中貞雄」の記事については、「山中貞雄」の概要を参照ください。

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