千恵プロへとは? わかりやすく解説

千恵プロへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:46 UTC 版)

稲垣浩」の記事における「千恵プロへ」の解説

1927年阪妻プロ去って下賀茂松竹京都撮影所入社月給25円の助監督となる。衣笠貞之助サード助監督経て1928年伊藤紹介伊丹万作とともに片岡千恵蔵プロダクション創設参加同年千恵蔵主演伊丹脚本の『天下太平記』で監督としてデビューし以後、『放蕩三昧』『源氏小僧』『絵本武者修行』『元禄十三年』といった千恵蔵主演明朗にして陽気な時代劇多数手がけ、伊丹と共に千恵蔵プロ二本呼ばれた。『絵本武者修行』や『元禄十三年』といった作品は、病気がちであった伊丹に代わっての監督担当だった。 1931年日活否決した瞼の母』の企画惜しんで原作者長谷川伸千恵蔵の名を騙って映画化許諾をもらい、千恵蔵怒らせたが、首をかけて企画通し千恵プロ日活契約更新第一作として完成映画大ヒット。この作品が駄目なら別の仕事出直すつもりだったという稲垣は、この作品ではっきり方針定め監督生涯仕事決めたという。 千恵プロではほかに『一本刀土俵入り』、子母沢寛原作弥太郎笠』などの股旅物多く作って好評され、のちにたびたびリメイクされている。

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千恵プロへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/20 00:21 UTC 版)

石本秀雄」の記事における「千恵プロへ」の解説

1928年昭和3年4月片岡千恵蔵、嵐長三郎嵐寛寿郎)、中根龍太郎らの50数名に及ぶマキノ俳優退社大道具主任河合広始撮影技師田中十三退社して日本キネマ撮影所設立に際して石本マキノ退社同年5月10日の「片岡千恵蔵プロダクション」(千恵プロ創立メンバーとなる。その6日後の5月16日撮影開始した千恵プロ設立第1作伊丹万作オリジナル脚本稲垣浩監督による『天下太平記』の撮影担当する1937年昭和12年)の「千恵プロ」第百作記念作品浅野内匠頭』に至るまで、稲垣監督の『瞼の母』や『一本刀土俵入』(1931年)、伊丹監督の『國士無双』(1932年)、山中貞雄監督の『雁太郎街道』(1934年)などの歴史的傑作映像技術支えた

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