千恵プロへ
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翌1927年、阪妻プロを去って、下賀茂の松竹京都撮影所に入社。月給25円の助監督となる。衣笠貞之助のサード助監督を経て、1928年に伊藤の紹介で伊丹万作とともに片岡千恵蔵プロダクションの創設に参加。同年千恵蔵主演、伊丹脚本の『天下太平記』で監督としてデビューし、以後、『放蕩三昧』『源氏小僧』『絵本武者修行』『元禄十三年』といった千恵蔵主演の明朗にして陽気な時代劇を多数手がけ、伊丹と共に千恵蔵プロの二本柱と呼ばれた。『絵本武者修行』や『元禄十三年』といった作品は、病気がちであった伊丹に代わっての監督担当だった。 1931年、日活が否決した『瞼の母』の企画を惜しんで、原作者長谷川伸に千恵蔵の名を騙って映画化許諾をもらい、千恵蔵を怒らせたが、首をかけて企画を通し、千恵プロと日活の契約更新第一作として完成、映画は大ヒット。この作品が駄目なら別の仕事で出直すつもりだったという稲垣は、この作品ではっきり方針を定め、監督を生涯の仕事と決めたという。 千恵プロではほかに『一本刀土俵入り』、子母沢寛原作『弥太郎笠』などの股旅物も多く作って好評され、のちにたびたびリメイクされている。
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千恵プロへ
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1928年(昭和3年)4月、片岡千恵蔵、嵐長三郎(嵐寛寿郎)、中根龍太郎らの50数名に及ぶマキノ俳優総退社、大道具主任・河合広始、撮影技師・田中十三が退社して日本キネマ撮影所の設立に際して、石本もマキノを退社、同年5月10日の「片岡千恵蔵プロダクション」(千恵プロ)創立メンバーとなる。その6日後の5月16日に撮影を開始した「千恵プロ」設立第1作、伊丹万作オリジナル脚本、稲垣浩監督による『天下太平記』の撮影を担当する。 1937年(昭和12年)の「千恵プロ」第百作記念作品『浅野内匠頭』に至るまで、稲垣監督の『瞼の母』や『一本刀土俵入』(1931年)、伊丹監督の『國士無双』(1932年)、山中貞雄監督の『雁太郎街道』(1934年)などの歴史的傑作を映像技術で支えた。
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