「鳴滝組」のダイナモとは? わかりやすく解説

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「鳴滝組」のダイナモ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 04:57 UTC 版)

滝沢英輔」の記事における「「鳴滝組」のダイナモ」の解説

その後同年は、松竹下加茂撮影所移籍した兄の二川林長二郎主演作投げ弥之助』2作の脚色をしたり、マキノスター沢村国太郎設立した沢村国太郎プロダクション長谷川伸原作の『振袖勝負』、翌1932年昭和7年)は同プロダクション製作、三村伸太郎オリジナル脚本による『大岡政談 十三夜見物侍』を監督し、同プロダクション提携していた、東亜キネマ等持院撮影所継承会社東活映画社で、月形龍之介主演長谷川原作三村脚本の『助太刀辻講釈』を監督したが、同年10月をもって東活解散等持院閉鎖となる。1933年昭和8年前半には、日活太秦撮影所佐々木味津三原作山上伊太郎脚本大河内伝次郎主演の『上州七人嵐』、八田尚之オリジナル脚本沢村国太郎主演の『武士仁義』を撮るが、しばらく浪人の身となった当時滝沢は、おなじマキノ出身脚本家八尋不二三村伸太郎監督鈴木桃作、兄のいる松竹下加茂脚本家藤井滋司片岡千恵蔵プロダクション活躍中の監督稲垣浩とともに太秦地区北側京都市右京区鳴滝音戸山町住んでいた。彼らはそこを近代以前の名称で「鳴滝村」と呼んでいた。あとから現れマキノ正博学生時代から友人マキノ・プロダクション助監督だった山中貞雄とその助監督萩原遼ともに、1934年昭和9年脚本家集団鳴滝組」を結成共同ペンネームを「梶原金八」とした。 滝沢1935年昭和10年)、さっそく市川右太衛門プロダクション(右太プロ)で梶原金八オリジナル脚本で『晴れ木曾路』、新興キネマ京都撮影所で『太閤記 藤吉郎走卒の巻』、翌1936年昭和11年)にはふたたび右太プロで『海内無双』、嵐寛寿郎プロダクションでも『宮本武蔵 地の巻』、と「鳴滝組」をもっとも活用した監督として活躍した1937年昭和12年)、京都鳴滝村」を離れ東京P.C.L.映画製作所入社フリードリヒ・フォン・シラー戯曲群盗』を下敷きにした三好十郎の『吉野群盗』を「鳴滝組」に発注、これは山中貞雄中心になって必死脚本仕上げ滝沢監督による『戦国群盗伝前・後となった同年山中P.C.L.移籍、ふたりは青山に家を借りて共同生活をした。山中ここから出征し、翌1938年昭和13年戦死した22作を遺した「鳴滝組」の歴史終わった

※この「「鳴滝組」のダイナモ」の解説は、「滝沢英輔」の解説の一部です。
「「鳴滝組」のダイナモ」を含む「滝沢英輔」の記事については、「滝沢英輔」の概要を参照ください。

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