「鳥羽絵」の国際化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/22 14:14 UTC 版)
幕末になって、物価騰貴や天然痘流行などが起こると、早速、戯画でそれを取り上げる浮世絵師が出てくる。「豊穣お蔭参之図」を描いた落合芳幾は、時世は少しも豊穣ではなかったが、「おかげ参り」「ええじゃないか」と大衆が踊り狂っている様子を皮肉に眺めている。 こうした戯画が諷刺に接したまま、明治の開化期に入った。幕末に来日したイギリス人チャールズ・ワーグマンが横浜で出した月刊漫画誌「ジャパン・パンチ」、さらには後のフランス人ジョルジュ・ビゴーの諷刺漫画も浮世絵界に大きな影響を与えている。[要出典] この開化期に、北斎張りの健筆でいち早く戯画を描いて巧みであったのは河鍋暁斎であった。暁斎の場合は「狂画」と称し、自ら狂斎と名乗っており、フランス人フェリックス・レガメと漫画合戦を行ったこともあった。「狂画」というのは、狂歌の絵画版と考えれば分かりやすい。絵の中に諷刺、皮肉、滑稽を描きだそうとしたものであり、笑いの中に鋭い社会性と現実認識を含んでいた。この狂斎とワーグマンに関係のあった小林清親は、その謹厳な風貌に関わらず、ポンチ絵のセンスが有り、『団団珍聞』に時局や議会の諷刺を描き、ジャーナリスティックな活動を模している。 清親の錦絵としては、「新版三十二相」、「百面相」や、日清戦争時の百戦百勝に掛けた「百撰百笑」などがあり、教訓画的な漫画を多く手がけている。彼の場合、自らも「ポンチ絵」と言ったことから、ことにワーグマンの影響が強いとみられる。いずれにせよ、開化期の錦絵で漫画ないしは戯画的なものを多く見かけるのは、この時期に著しく発展した新聞ジャーナリズムとの強い関係が指摘できる。戯画の錦絵は、一面では好事の産物であったが、明治期の戯画はジャーナリズムの一環として人びとの視覚にうったえたからであった。
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