「鳥羽之状」事件
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『日本書紀』には、敏達天皇元年(572年)には、多くの史が3日かけても誰も読むことのできなかった高句麗からの上表文を解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛され、殿内に侍して仕えるように命ぜられた。上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れてそのままでは読めないようにされていたが、羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取るという方法で解読を可能にしたという「鳥羽之状」事件が記載してある。しかしながら、「鳥羽之状」事件は、「つくり話し」「当時の現代中国語の読み書き能力に関する説話」「書かれていることがらを歴史上の事実としてはみない」という解釈が通説である。正史の編纂は中央集権国家としての必須の事業であり、その記述は国家の姿勢に添って行われる。『日本書紀』の記述も中国に倣って日本列島における小帝国であろうとした大和朝廷の姿勢に添って行われた。湯気にあてて読んだ云々も、その姿勢に添ったつくり話しであり、実際には多くの史たちの古い知識では書かれた漢文(中古音水準の漢文)が読めなかった事情を反映しているというのが通説である。「鳥羽之状」事件は、つくり話しであり、おそらく国書を携えた使節が高句麗からきたという事実は存在したであろうが、鳥の羽に墨で書かれた暗号という表現は虚構である。 この上表文を携えた高句麗の使節は、前々年の欽明天皇三十一年(570年)に越国に漂着、その後、都に滞在しており、国から国への外交文書が読まれないまま2年間も放置されていたことになり、その事情は、欽明天皇三十二年(571年)記事に、「献物併表」の奏上が行えないまま良日を占って待つうち、天皇が「不予崩御」と説明されており、天皇の代替わりのなかで忘れられていたとある。しかし、欽明天皇の二十三年または二十一年に新羅が任那を滅ぼしたことによる緊張のさなかに高句麗の使節を放置したとするならば、異常事態であり、さらに、肝心の国書も、どのような用件であったのか、『日本書紀』は一切記していない。それは、事件そのものがつくり話しだからとみられる。『日本書紀』「鳥羽之状」後記事では、この高句麗の大使は副使らに殺されており、越国に漂着した際、現地の郡司に調をだまし取られた責任に関する使節間の内紛と書かれている。翌年の敏達天皇二年(573年)記事にも、高句麗の使節が越国に漂着したが、朝廷はこれを怪しんで饗応せずに帰らせ、さらに、その送使が高句麗の使節を殺害する事件が書かれている。これらの事件に仮託された政治的意味は、北周、北斉を意識して大和朝廷と手を結ぼうとする動きが高句麗からあったという程度である。 「鳥羽之状」事件が象徴するのは、外国を意識した漢字の使用、現実的な物言いをすれば当時の中国語の読み書き能力の問題である。すなわち、天皇と大臣は、実際的コミュニケーションに役立たない学問をしていると、史を責めたのであり、現代に例えるなら、効率を急ぐ人が言う国文学科は日本語教育をせよの類の発想である。
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