「鴨緑丸」乗船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:50 UTC 版)
捕虜は第1船倉に約600名、第2船倉に200名、そして第3船倉には約800名が収容された。船倉内は雑魚寝で寝るようになっている以外は何も設備はなく、トイレは使用は自由だったものの、その場所は船倉内ではなく甲板であった。捕虜の船倉への移動に対しては、都子野順三郎陸軍大尉指揮下の30名ないし40名の警備兵をあてた。捕虜として乗船した人物の証言では、乗船完了と同時に船倉にあるハッチの扉が閉められたため、船倉内では便所がない状態となり、4個のバケツで代用したが、1時間後には排泄物で埋まってしまったという。都子野大尉はまた洪中将から、捕虜に適度な運動をさせたり甲板を移動できる措置を与えるよう命令を出されていた。この状態のまま12月13日夕刻にマニラを出港して港外で一夜を明かすこととなるが、過度の密集状態の末、夜が明けるまでに早くも一部の捕虜の中から、窒息死や圧死で命を落とす者が50名ばかり現れた。洪中将も「彼らの状態は決して「楽」と言える状態でないこと」に気づいていたようであったが、評論家で洪中将の評伝『洪思翊中将の処刑』を執筆し、自身もアメリカ軍による捕虜輸送経験のある山本七平は、捕虜を船倉に押し込めることについて、日本側の通常の軍隊輸送船はおろかアメリカ軍による捕虜輸送船も同じようなものであったと回想し、裁く側が船倉のことにこだわったのは「自分たちの基準」で計ったからとしている。 翌12月14日未明に航行を再開した「鴨緑丸」は前述のように第38任務部隊艦載機の猛攻により沈没した。茶園義男の調査によれば、「鴨緑丸」空襲時の死者492人・オロンガポ待機中の死者10人・サンフェルナンドでの殺害15人・台湾到着までの死者8人・「江ノ浦丸」空襲時の死者400人・門司到着までの死者75人となっている。また、都子野大尉の手記によれば、「鴨緑丸」からの捕虜退去中に激しい空襲を受けた際、捕虜が乗船中であることを示そうとシーツで甲板に“PW”(捕虜の略語)の文字を書いたが爆撃と機銃掃射は続き、捕虜とともに大声を上げて手を振るなどするうちに、艦載機のうちの1機が気付いて翼で僚機に対して合図を送り、これによりようやく「鴨緑丸」への攻撃が止んだ。待機場所のオロンガポには陸軍部隊が不在で、海軍部隊と交渉を重ねて若干の米と塩を借用し、炊事が空襲で妨害されるためやむを得ず生の状態で捕虜に支給したという。ヒ72船団における輸送船「楽洋丸」(南洋海運、9,418トン)やマタ30船団における輸送船「阿里山丸」(三井船舶、6,886トン)での事例とは異なり、「鴨緑丸」からは多くの捕虜が脱出に成功したが、脱出した捕虜の前途には数々の苦難が待ち受けていた。
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