「鶴亀問答」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 05:06 UTC 版)
島津斉宣は天明7年に藩主になったものの、実際は斉宣が若年であることを理由に隠居した父・重豪が藩政を牛耳り、寛政3年に重豪は藩政後見をやめたが、その後も重豪の息のかかった家老・赤松造酒、市田盛常が藩政を左右している状態が続いていた。しかし、重豪の長年の浪費による国元の疲弊は目に余る状態となり、我慢も限界に達した斉宣は文化2年に「鶴亀問答」なる文書を家臣に配布し、財政改革に取り組む意思を示した。この鶴亀問答は比喩的な文章で、概略は「君主の贅沢を慎み、民衆の生活を考えねばならない」という内容であった。 同年、鹿児島藩江戸屋敷が全焼し、その再建のためにも早急な財政改革を迫られた斉宣は、父の代から居座っていた家老達に隠居・剃髪を命じ、文化4年(1806年)11月に当年30歳の樺山主税久言を抜擢した。樺山は「近思録」の読書仲間であった秩父季保を推挙し、同年12月には秩父も家老となった。但し、このときに市田盛常は家老をやめさせられなかった。
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