マキノから鳴滝組の時代とは? わかりやすく解説

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マキノから鳴滝組の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 22:08 UTC 版)

藤田潤一」の記事における「マキノから鳴滝組の時代」の解説

1910年明治43年)、兵庫県有馬郡三田町現在の同県三田市)に生まれる。 1920年代マキノ・プロダクション入社助監督務め中島宝三1904年 - 没年不詳)に師事する1929年昭和4年)からは中島作品のために脚本を書く。同年7月25日同社代表の牧野省三死去し同年9月マキノ正博による新体制発表になるが、当時助監督であった藤田の名はその一覧表には登場しない。師の中島1930年昭和5年)末に同社退社し帝国キネマ演芸移籍すると、明けて1931年昭和6年1月30日公開された『幕末風雲堀新兵衛の巻 新門辰五郎の巻 清水次郎長の巻』(監督マキノ正博稲葉蛟児久保為義)の脚本最後に同社退社東京巣鴨河合映画製作社(代表・河合徳三郎)に移籍した翻案オリジナル含めて14本の脚本量産し1932年昭和7年7月22日公開され琴糸路主演映画人生岐路』(監督吉村操)を最後に、師の中島がいる京都新興キネマ移籍、『人生岐路公開翌日である同23日公開された『父をたづねて三千里』(監督川手二郎)ではすでに藤田脚本使用していた。いっぽう師の中島同年末には、中島1年半在籍した河合映画製作社移籍している。 藤田監督としてデビューしたのは、満24歳になる年にあたる1934年昭和9年7月26日公開され小金井勝主演映画肥後の駒下駄』(原作・脚本上島量)である。『日本映画監督全集』の藤田の項を執筆した岸松雄は、偶然、同作クランクアップの日に京都新興キネマ撮影所(のちの新興キネマ京都撮影所現在の東映京都撮影所)を訪れ、その疲れた顔をよく記憶しているという。岸が同撮影所訪れたのは、山中貞雄親交あったからで、当時山中は、三村伸太郎稲垣浩八尋不二滝沢英輔藤井滋司土肥正幹鈴木桃作)、萩原遼とともに鳴滝組」と称した脚本グループとして活動しており、藤田はこの集団井上金太郎荒井良平石田民三とともに鳴滝アウトサイダーとして参加していた。「鳴滝組」が集団執筆したときの脚本クレジットの「梶原金八」は、8人のメンバー数から命名されたが、それが増えても「八」で固定された。 「梶原金八」を参照 1935年昭和10年3月7日公開され河津清三郎主演映画春雪白日夢』(脚本八尋不二)で、藤田監督のほか、原作者三田 一としてクレジットされて以来、これを脚本家としての名として使用するようになり、1936年昭和11年1月25日公開され杉山昌三九主演映画『闇討仁義 』(原作木村恵吾)では、「三田一名義脚本・監督としてクレジットされた。同年片岡千恵蔵プロダクション移籍同年7月31日公開の『女殺油地獄』(原作近松門左衛門脚本梶原金八)、1937年昭和12年4月15日公開の『浅野内匠頭』(原作・脚本三村伸太郎)の2本の片岡千恵蔵主演作監督している。『女殺油地獄』は藤田千恵プロ入社第一回作品であり、「鳴滝組」が梶原金八第十回目作品として取り組んだものであった。「鳴滝組」の三村伸太郎オリジナル脚本執筆した浅野内匠頭』を最後に片岡千恵蔵プロダクション解散しており、藤田は、同社配給提携していた日活片岡以下全員とともに移籍する藤田は、片岡日活入社第一作である『謳へ春風』の監督務め同作は、同年6月3日公開された。藤田が、日活片岡主演作を手がけたのは同作最後になり、月形龍之介主演作を2作監督したあとは、東宝映画京都撮影所移籍1938年昭和13年12月8日公開された『幼い英雄たち』で現代劇転向したこのころ、同撮影所岸松雄再会し藤田と岸は、日活太秦撮影所前通り現在の大映通り商店街にあった二階家共同生活始めたという。それは女優白石明子以前住んでいた物件で、隣には市川男女之助夫妻住居があった。同社東京撮影所現在の東宝スタジオ)にも出張して9本を監督したが、1941年昭和16年5月8日公開され徳川夢声主演映画大いなる感情』(製作竹井諒、原作阿木翁助脚本外山凡平)を最後に撮影所去った同年3月には、女優不忍鏡子本名進藤幸、1919年 - )と結婚している。鏡子の姉が、当時東宝映画東京撮影所文芸課に所属した阿木翁助1912年 - 2002年)の妻であったこと、阿木原作採用した文芸課長竹井諒が製作した大いなる感情』を藤田監督したこと等に縁があって、見合い結婚したものである。挙式東京赤坂氷川神社で、竹井夫妻媒酌人として行われた鏡子実兄は、美術デザイナー進藤誠吾(1913年 - 2003年日本映画・テレビ美術監督協会理事長)であり、鏡子結婚機に引退したものの、藤田映画一家一角を担うことになった

※この「マキノから鳴滝組の時代」の解説は、「藤田潤一」の解説の一部です。
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