マキノプロの設立とは? わかりやすく解説

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マキノプロの設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:18 UTC 版)

牧野省三」の記事における「マキノプロの設立」の解説

牧野教育映画製作所は、大活国際活映人材得て自主製作・自主配給機能持てるようになり、1923年大正12年)にはマキノ映画製作所改組時代劇現代劇などの一般作品を製作していった。この時に阪東妻三郎スターに育て上げ寿々喜多呂九平二川文太郎などの若き映画人たちを育成した。そんな20前後の若いスタッフたちの自由な発想作ったリアルな剣戟映画人気呼んだ1924年大正13年8月東亜キネマ吸収合併され、東亜キネマ甲陽撮影所等持院撮影所所長就任した1925年大正14年1月新国劇澤田正二郎主演の『国定忠治』を公開し大成功収める同年6月、ふたたび独立してマキノ・プロダクション設立した1927年昭和2年1月大作忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始した大石内蔵助役に候補あげられていた實川延若松本幸四郎辞退し最終的に新派大幹部であった伊井蓉峰大石役に決まったものの、牧野希望とは正反対演技をしてしまったり当初片岡千恵蔵演じることに決まっていた浅野内匠頭諸口十九演じさせ、不満に感じた千恵蔵牧野脱退し、これに続いて嵐寛寿郎50名の俳優脱退してしまう。さらに、編集中にネガ引火させてしまい自宅全焼するなど、様々なトラブル引き起こし不完全な公開となってしまう。 その後ディスク式トーキー研究取り組み1929年昭和4年)に国産ディスク式トーキーの『戻橋』を完成させている。 同年7月25日心臓麻痺死去50歳没。監督としての遺作1928年昭和3年公開の『雷電』だった。葬儀御室撮影所営まれ池永浩久葬儀委員長務めたこの様子を映した記録映画現存しており、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵している。墓は等持院にあり、墓所前には「マキノ省三先生像」と彫られ銅像建っている。

※この「マキノプロの設立」の解説は、「牧野省三」の解説の一部です。
「マキノプロの設立」を含む「牧野省三」の記事については、「牧野省三」の概要を参照ください。

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