マキノプロの設立
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牧野教育映画製作所は、大活や国際活映の人材を得て、自主製作・自主配給の機能も持てるようになり、1923年(大正12年)にはマキノ映画製作所に改組、時代劇や現代劇などの一般作品を製作していった。この時に阪東妻三郎をスターに育て上げ、寿々喜多呂九平や二川文太郎などの若き映画人たちを育成した。そんな20前後の若いスタッフたちの自由な発想で作ったリアルな剣戟映画は人気を呼んだ。 1924年(大正13年)8月、東亜キネマに吸収合併され、東亜キネマ甲陽撮影所と等持院撮影所の所長に就任した。1925年(大正14年)1月、新国劇の澤田正二郎主演の『国定忠治』を公開し、大成功を収める。同年6月、ふたたび独立してマキノ・プロダクションを設立した。 1927年(昭和2年)1月、大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始した。大石内蔵助役に候補があげられていた實川延若、松本幸四郎が辞退し、最終的には新派の大幹部であった伊井蓉峰が大石役に決まったものの、牧野の希望とは正反対の演技をしてしまったり、当初片岡千恵蔵が演じることに決まっていた浅野内匠頭を諸口十九に演じさせ、不満に感じた千恵蔵が牧野を脱退し、これに続いて嵐寛寿郎ら50名の俳優が脱退してしまう。さらに、編集中にネガを引火させてしまい自宅が全焼するなど、様々なトラブルを引き起こし、不完全な公開となってしまう。 その後、ディスク式トーキーの研究に取り組み、1929年(昭和4年)に国産ディスク式トーキーの『戻橋』を完成させている。 同年7月25日、心臓麻痺で死去、50歳没。監督としての遺作は1928年(昭和3年)公開の『雷電』だった。葬儀は御室撮影所で営まれ、池永浩久が葬儀委員長を務めた。この様子を映した記録映画が現存しており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。墓は等持院にあり、墓所の前には「マキノ省三先生像」と彫られた銅像が建っている。
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