マキノのスターキャメラマンとして
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「三木滋人」の記事における「マキノのスターキャメラマンとして」の解説
1902年(明治35年)12月26日、愛媛県に生まれる。 1916年(大正5年)、わずか14歳にして東京・大久保のM・カシー商会に入社、同年『先代萩床下』の撮影を初めて任された。同社は同年内に解散し、その後の経緯は不詳だが、21歳となる1923年(大正12年)、西宮の東亜キネマ甲陽撮影所に入社、1925年(大正14年)1月22日公開の桜庭喜八郎監督の『母』に撮影技師「三木稔」としてクレジットされている。当時すでに、牧野省三のマキノ映画製作所(等持院撮影所)は東亜キネマに合併されており、牧野は等持院・甲陽の両撮影所長であったが、同年6月に牧野は京都に御室撮影所を建設して独立、その際に三木は小笹正人新所長による甲陽撮影所に残った。その後約半年を過ぎた10月、阪田重則監督の谷崎潤一郎原作『お艶殺し』の岩岡千里と共同で撮影したのを最後に、マキノ・プロダクション御室撮影所に移籍した。 三木のマキノ入社第1作は、同年11月に公開された曾根純三のオリジナル脚本による監督作『寺小屋騒動』で、松尾文人や井上潔(のちのマキノ潔)ら子役の活躍する時代劇で、しばらく曾根の監督作のキャメラを担当した。1926年(大正15年)7月にはマキノ省三と人見吉之助の共同監督作『赭土』のキャメラマンに抜擢される。同作は、マキノ輝子、武井龍三、マキノ正唯(のちの映画監督・マキノ正博)らハイティーンの俳優の活躍する映画であり、この時期の同世代ややや年少の俳優との交流、とくに6歳下のマキノ正博との密接な関わりが、翌1927年(昭和2年)、マキノ正博の監督デビュー第3作『週間苦行』への三木のオリジナルストーリーの提供に結びつく。 ストーリー、シナリオ作家としての三木は、1927年から1928年(昭和3年)に限られ、オリジナルストーリーの多くは久保為義が脚本化し、マキノ正博が監督している。1928年に初めて書いたコメディ脚本『八笑人』は三木がキャメラを回し、マキノ正博が監督、杉狂児が主演している。また、同年の「マキノ青年派」売り出し映画『神州天馬侠』の第三篇・第四篇は、第一篇・第二篇を監督した曾根が退社し、ヴェテランの吉野二郎に監督が交代、「椎名良太」のペンネームで脚本を執筆した曾根に代わり、三木がひきつづきキャメラを回すと同時に吉川英治の原作を脚本化している。 嵐長三郎こと嵐寛寿郎のマキノ入社第1作は、曾根がマキノを退社する前の1927年に手がけているが、脚本の山上伊太郎が同作に抜擢され、三木の山上との初仕事となった。1928年4月 - 5月の片岡千恵蔵、嵐長三郎らの俳優総退社事件(日本映画プロダクション連盟の項を参照)ののちもマキノに残り、スタア去りしのちのマキノ御室撮影所で新しいスタアを生み出すべくつくられた『浪人街 第一話 美しき獲物』を撮影技師の枠を超えて協力し、20歳のマキノ正博監督、25歳の山上伊太郎脚本とともに、撮影の三木26歳を含めた3人は「新鋭トリオ」、「青春トリオ」とも称された。これは俳優だけではなく、映画作家と映画技術者をもスタアにするマキノの戦略でもある。前年、名古屋の埋立地に建てられたマキノ中部撮影所長に当時18歳のマキノ正博が就任したように、わずか26歳の三木は、撮影部長に就任する。 1929年(昭和4年)7月25日の牧野省三の没後、長男の正博を中心とした新体制が発表され、撮影部の一員として名を連ねる。翌1930年(昭和5年)7月13日に公開された正博・久保の共同監督作『嬰児殺し』のカメラを最後に、同社では作品を発表していない。当時の同社は、年末に賃金の不払いとそれに抗議するストライキが起こり、明けて1931年(昭和6年)1月には細々と映画製作が再開されるが、この時期のどこかで三木は同社を退社、帝国キネマ(帝キネ)に移籍している。
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