シナリオ作家として
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処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。1957年に第一作品集『われに五月を』、1958年に第一歌集『空には本』(的場書房)を刊行する。1959年、谷川の勧めでラジオドラマを書き始める。投稿した「中村一郎」(RKB毎日)にて、民放会長賞を受賞。また、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと「若い日本の会」を結成、60年安保に反対した。 1960年(昭和35年)2月、第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送される。同年、浅利が旗揚げした「劇団四季」で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演される。また、篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。25歳でハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年(27歳)、松竹の女優だった九條映子(今日子)と結婚し、ハツとは別居となった。結婚式は4月2日にカトリック吉祥寺教会で挙げた。 結婚生活については2人で映画を見に行くこともあったほか、犬好きのため九條がアルバムに犬の写真を貼り、寺山が記録を書き込むなど、良好だった様子が伺える。 矢崎泰久、和田誠、立木義浩、九條の寺山修司を語る座談会では、九條だけが知る寺山の様子(新婚の頃は食いしん坊、ポケットの中やハンドバッグの中を開けて覗く、好奇心の塊、おしゃべりだったなど)を話す場面も見られる。夫婦喧嘩では妻がわめき散らして旦那が手を出すという形式ではなく、寺山が九條を言葉で説き伏せている間に、九條が手を出すという形だったと語っている。 「現代の青春論」(三一書房)と題し、「家出のすすめ」をまとめる。 1964年(昭和39年)、放送詩劇「山姥」(NHK)がイタリア賞グランプリ受賞。放送詩劇「大礼服」(CBC)が芸術祭奨励賞受賞。 1960年代半ば以降からは学研の「高三コース」にて高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりするなど、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていく。1963年に『現代の青春論』(『家出のすすめ』)を刊行。
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