シナリオ修業と実写映画の時代
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「吉田喜昭」の記事における「シナリオ修業と実写映画の時代」の解説
1937年(昭和12年)、岐阜県恵那郡中津町(現:中津川市)に生まれる。雪室俊一によれば、吉田は幼少時に急性灰白髄炎 (小児マヒ)を患い「手足の動きが不自由だった」という。 1956年(昭和31年)前後に岐阜県立中津高等学校を卒業し、東京都文京区白山の東洋大学文学部に進学、やがて同学を卒業する。満24歳になる1961年(昭和36年)8月に発行された『月刊シナリオ』(日本シナリオ作家協会)に掲載された「シナリオ修業の生活と意見」と題する座談会に、北村篤子(1933年 - )、日活の蘇武道夫(生年不詳 - 1983年)、近代映画協会の松田昭三(1928年 - )、段野利世子、松竹の今井金次郎とともに出席しており、同時点ではすでに脚本家としての修業を開始している。記録に残るもっとも早い時期の作品は、国際放映が製作した連続テレビ映画『忍者部隊月光』(1964年 - 1966年)の第66話、1965年(昭和40年)4月9日に放映された『アース・クェイク作戦 前篇』(監督福原博)である。同番組については途中の参加であったが、続篇の『新忍者部隊月光』も含めて、合計27話を書き、初期の代表作になる。1966年(昭和41年)4月27日に公開された石原裕次郎主演の劇場用映画『青春大統領』(監督江崎実生)の脚本に参加、「原案」とクレジットされた。
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