マキノ前、マキノ後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 07:04 UTC 版)
設立の半年後の1924年(大正13年)6月、京都の牧野省三の「マキノ映画製作所」を吸収合併、「マキノ等持院撮影所」を「東亜キネマ等持院撮影所」と改称、牧野を甲陽・等持院の両撮影所の所長に任命した。以降、両撮のデュアル・プロダクション体制で、現代劇および時代劇を量産した。 「等持院撮影所」の時代劇部の内部で東亜派と旧マキノ派が対立、1925年1月、同撮影所を「東亜マキノ等持院撮影所」と改称、牧野がひきつづき所長、31歳の山根幹人を所長代理にしてリスタートするも、同年3月には失火により焼失。同年6月、牧野省三は東亜キネマから独立し、「マキノ・プロダクション」を設立、「御室撮影所」を設立、等持院撮影所の旧マキノ派は新生マキノ・プロに結集した。山根もマキノ派に合流、東京では牧野の動きに呼応して、高松豊次郎が「タカマツ・アズマプロダクション」を設立、「マキノ東京派」を構成した。 マキノ派去りしのちの「等持院撮影所」は「東亜キネマ京都撮影所」と改称、所長には同社の親会社・八千代生命の宣伝部長である小笹正人が就任した。マキノ派分離の2年後の1927年(昭和2年)、東亜キネマは「甲陽撮影所」を閉鎖、等持院の「東亜キネマ京都撮影所」に製作事業の拠点を一元化した。
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