マキノ映画時代
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同年11月25日、国際活映再建のための引き抜きで、衣笠は藤野、横山、島田嘉七、新井淳、東猛夫ら12名の俳優とともに日活を退社。国活巣鴨撮影所で坂田重則監督の『鷲津村の娘』『老僧の恋』などに出演するが、1923年(大正12年)に国活を退社し、同志数人と連鎖劇団の衣笠貞之助一座を結成する。滝野川中里のオープンセットで自作自演の『悲しき結婚』を撮り、群馬県から愛知県を実演巡業した。同年、名古屋で出演中に再び牧野に招かれ、創立したばかりのマキノ映画製作所に参加。同製作所第1回作品の『二羽の小鳥』は『妹の死』の再映画化で、同社最初の封切作品の一本であった。以後は監督専門となり、現代映画の監督はほとんど衣笠が一手で引き受けた。大作『金色夜叉』は前後篇からなり、後篇のセット撮影中に関東大震災に遭遇。1924年(大正13年)に森岩雄のシナリオによる『恋』『寂しき村』を監督するが、前者は風俗上好ましくないとの理由、後者は馬車とタクシーの生存競争が社会的に刺激をあたえるとの理由で、地方では警察から上映禁止になるところもあった。そのほか初の時代劇映画となった『桐の雨』、阪東妻三郎主演の『恋と武士』などを撮った。 1925年(大正14年)、直木三十五が設立しマキノと提携した連合映画芸術家協会の第1作で、沢田正二郎主演の『月形半平太』を監督。沢田の多忙なスケジュールの合間を縫って、不眠不休でわずか8日間のうちに撮影を完了した作品だが、新国劇の当り狂言の映画化ということもあり大ヒットした。続いて市川猿之助主演で『日輪』と『天一坊と伊賀之亮』を監督。前者は卑弥呼を題材としたものだが、卑弥呼は当時神功皇后や天照大神だったという説があったため、右翼団体が「皇室を冒涜した」として不敬罪で告訴するという騒動が発生し上映が中止された。
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