マキノ退社後・戦後とは? わかりやすく解説

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マキノ退社後・戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:04 UTC 版)

岡島艶子」の記事における「マキノ退社後・戦後」の解説

1930年昭和5年)、この頃からマキノ経営不振に陥り、8月マキノ退社する1931年昭和6年)に嵐寛寿郎第2次嵐寛寿郎プロダクション結成して夫の仁科がこれに同行した際、岡島もこれに参加し仁科監督の『右門捕物帖 十八番手柄』『戸並長八郎』などで嵐の相手役をつとめる。1932年昭和7年)には富国映画社夫婦ともに引き抜かれ、『情熱波止場』に出演するが、同年6月には資金難解散し1933年昭和8年)に夫妻宝塚キネマに入るも、こちらもすぐに解散してしまう。その後実演新興キネマ映画頼まれ時折出演したが、1935年昭和10年)からは三女育児専念する戦後は、大河内龍頼まれ地方巡業一座組織し大河内の『丹下左膳』・岡島の『滝の白糸』の二枚看板中国・四国・九州回り、ついで九州劇団神田千栄一座に加わる。1955年昭和30年)、東映専属契約を結び、『荒獅子判官』『暴れん坊街道』『真田風雲録』などに脇役出演その後フリーとなり、他社の作品テレビドラマにも出演する1980年昭和55年)、第4回山路ふみ子映画賞功労賞受賞1989年平成元年2月4日京都府京都市北区富田病院肺性心不全のため死去80歳没。

※この「マキノ退社後・戦後」の解説は、「岡島艶子」の解説の一部です。
「マキノ退社後・戦後」を含む「岡島艶子」の記事については、「岡島艶子」の概要を参照ください。

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