マキノ雅弘の弟子としてとは? わかりやすく解説

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マキノ雅弘の弟子として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 10:24 UTC 版)

関喜誉仁」の記事における「マキノ雅弘の弟子として」の解説

1923年大正12年4月13日関東州大連市現在の中華人民共和国遼寧省大連市)に生まれる。 旧制中学校在学中校内での月1度選定上映映画夢中になり、東京出て日本大学法文学部芸術学科映画専攻現在の日本大学藝術学部映画学科)に入学する同学在学中に、マキノ雅弘当時は正博)に個人的に師事する。関が満18歳であった1941年昭和16年12月8日太平洋戦争開戦し、やがて戦況激化応召し1944年昭和19年9月同学繰り上げ卒業する出征先は中国大陸であった1945年昭和20年8月15日第二次世界大戦終結復員後1946年昭和21年6月マキノ正博所長務めていた時代松竹下加茂撮影所入社助監督になり、大曾根辰夫1904年 - 1963年)に師事する1950年昭和25年7月24日、同撮影所火災出し翌年9月には、松竹京都撮影所下加茂から太秦に移ることになる。1951年昭和26年6月8日公開された『の宿』(監督大曾根辰夫)でセカンド助監督1952年昭和27年10月15日公開された『武蔵小次郎』(監督マキノ雅弘)でチーフ助監督務めた記録残っている。 戦時統制で製作機能失っていた日活1954年昭和29年)、調布撮影所新設、製作を再開するにあたり、関は日活助監督部に移籍する同社は、同年6月27日公開された『かくて夢あり』(監督千葉泰樹)、同じく国定忠治』(監督滝沢英輔)を皮切りに自主製作開始、関は、記念すべき第1作の『国定忠治』でチーフ助監督務めている。同年同様に他社から移ってきた同世代助監督中平康斎藤武市鈴木清太郎鈴木清順)らがいた。翌1955年昭和30年2月18日公開された『次郎長遊侠秋葉火祭り』では、ふたたびマキノ雅弘チーフ助監督務め1956年昭和31年1月8日公開され第1作丹下左膳 第一部の巻』(監督マキノ雅弘)に始まる3部作では、棚田吾郎後輩内田一作1928年 - 1983年)と共同脚本執筆した同年7月5日公開され現代ものの青春映画燃ゆ黒帯 花の高校生』(主演青山恭二)で監督昇進した監督昇進第6作の『哀愁高速道路』(主演小高雄二)が1958年昭和33年11月18日公開されるが、同作最後に同社退社以降フリーランスになる。

※この「マキノ雅弘の弟子として」の解説は、「関喜誉仁」の解説の一部です。
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